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カテゴリ:昭和期・プロ文学
『貧しき人々の群』宮本百合子(角川文庫) もちろん今まで一度も読んだことのない作家というのは、星の数ほどあると思います。 しかし、星の数ほどのその中から新たに一人の作家の作品を読み、それがびっくりするような作品だったというケースは、実は、あまりないと思いませんか。 私は今までそう思っていたんですが、さてところが、宮本百合子であります。 うーん、少なくとも私はびっくりいたしましたね。 こんな所に「天才」がいたんだなぁ、と。 ただ、まぁ私がおどろいたのは、取り敢えず今回は、えっ? その年齢で? ということでありますね。初めて読む作家の、初めて読む小説集ですから。 えー、冒頭の小説集には三つの小説が収録されています。この三作です。 『貧しき人々の群』(1916年) 『禰宜様宮田』(1917年) 『加護』(1920年) このうちの最初の作品が宮本百合子のデビュー作で、この作品を書いたときの筆者の年齢は17歳(!)であります。 この作品は坪内逍遙の紹介で『中央公論』に発表されました。 これはたぶん中島敦とか梶井基次郎とかについて書かれた文章で私は知ったのだと思いだすんですが、1916年は大正5年にあたりまして、この当時、『中央公論』に作品が掲載されるということは、文学青年達の「夢」であった、と。 その『中央公論』に、17歳の無名女学生の処女作がいきなりの掲載であります。 最も、このことについては、宮本百合子の親の力(彼女の両親の家柄、父親の職業ともに、第一級のブルジョワジーでありインテリゲンチャであります)がかなり与っていると思いますが、しかし、リアルタイムの熱気は、作品からも伝わってきそうです。 例えば、17歳でそれなりの小説を書く人って、きっと思ったより沢山いる気がします。 でも、17歳の皮膚感覚だけで書いた小説(まー自分の感覚だけを頼りに書いたような小説ですね)と違って、この作品のような客観性や社会的広がりを持った小説が書ける17歳ということになりますと、そんなにいるとはとても思えません。 これがまず、この筆者が圧倒的にすごいといえる理由でありましょう。 特に私が感心したのは『禰宜様宮田』でした。 『貧しき人々の群』については、それでも、不思議な人称を取っていることや(一人称で三人称的描写がなされています。しかし前例がありまして、鴎外の『雁』なんかがそうですね。)、文体も、お世辞にも流麗・なめらかとはいえないと思ったりします。 また、主人公の行為の「偽善性」に対する認識が、はたしてどこまで筆者にあるのか少し読みきれない気もしました。 しかし、デビュー第三作目に当たるという『禰宜様宮田』は、これはとても見事な小説でした。 第一、タイトルがいいではありませんか。十代の女性が付けたタイトルとは思えない渋さがあります。 この「禰宜様宮田」と呼ばれる極めて貧しい農民が、さらに徹底的に不幸になっていくという展開はリアリティにおいて実に見事なものがあり、そこには生きることの切なさを過不足なく描いて、却って凛と美しいものがありました。 また、そんな彼と対をなすように描かれたブルジョワジーのあくどさについても、迫力あるリアリティにあふれ、呉服屋で地主である「海老屋の隠居」の人物造形は、悪辣非道さを通り越してあっけらかんとあっぱれで、小憎らしくも魅力的なものになっています。 ただ、この作品のエンディング、奈落の底に突き落とされぼろ切れのように死んでいく「禰宜様宮田」の長男を扱ったエンディングについては、不幸の連鎖にルーティーンが漂うということではなく、作品の広がりとして、ここまで書く必要があったのかなと言う気が少ししました。 さてしかし、これが1917年(大正6年)当時に、つまりプロレタリア小説すら十分に認知されていないこの時期に(最初のプロレタリア雑誌『文芸戦線』創刊は1924年です)、18歳の女性の書いた小説でしょうか。 この時代の文壇にいるプロの小説家が持つ社会性に対する射程距離を、この18歳の女性は、遙かに振り切っています。 天才という人種は、やはり存在するものなんですね。 しかしその後、時代が彼女の「天才」の充分な開花を可能にしたかについては、個々の作品をもう少し読んでから判断したいとは思うものの、ただその一端は、おそらく文学史の記述が(記述の少なさが)語っているのかなと思います。 それはたぶん、無念といってよかろうものかと思いますが……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.12.04 08:23:12
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