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カテゴリ:昭和期・新戯作派
『富嶽百景・走れメロス』太宰治(岩波文庫) 上記短篇集の読書報告の第三回目であります。 前回の内容をまとめようと思いましたが、それをするとそれだけで今回分が終わってしまい、次回に続く事になってしまいます。 すると次回は、また前回のまとめだけで終わってしまい、またその次回に、また次回に…と、まるで「無限連鎖講=ネズミ講」のようですなー。ははは。 と言うわけでまとめは無しに進みます。 取りあげている作品は『魚服記』。分析のテーマは、これでした。 「本作に描かれている『児童虐待』は、一体作品中のいつから起こっていたのか」 まとめないとはいえ、前回に押さえた項目の何点かに、すでに「ほのめかし」が見えていますね。 他の炭焼き小屋から離れたところで閉鎖された空間にたった二人で住む父親とスワだとか、どうどうと落ちる滝をながめながら少しずつ「思案ぶかく」、大人の女になっていこうとするスワだとか、茶店を畳んだ後の次の季節を「いちばんいやな季節がはじまる」と感じていたスワだとか、レイプを受けた日、珍しく髪を結って父親の帰りを待っていたスワの姿だとか、からですね。 しかし、私が今回なるほどと思ったのは、前回のストーリー番号で言えば、最も眼目となる(7)の部分ですね、やはり。 前回の説明では「異様な発言」と書きましたが、その場面はこの様になっています。 日が暮れかけると山は風の音ばかりだった。楢や樅の枯れ葉がおりおりみぞれのように二人のからだへ降りかかった。 「お父。」 スワは父親のうしろから声をかけた。 「おめえ、なにしに生きでるば。」 父親は大きい肩をぎくっとすぼめた。スワのきびしい顔をしげしげ見てからつぶやいた。 「わからねじゃ。」 スワは手にしていたすすきの葉を噛みさきながら言った。 「くたばったほうあ、いいんだに。」 父親は平手をあげた。ぶちのめそうと思ったのである。しかし、もじもじと手をおろした。スワの気が立って来たのをとうから見抜いていたが、それもスワがそろそろ一人前のおんなになったからだな、と考えてそのときは堪忍してやったのであった。 「そだべな、そだべな。」 スワは、そういう父親のかかりくさのない返事がばかくさくてばかくさくて、すすきの葉をぺっぺっと吐き出しつつ、 「あほう、あほう。」 とどなった。 私がはっと思ったのはこの中の「父親は平手をあげた。ぶちのめそうと思ったのである。しかし、もじもじと手をおろした。」という部分です。 なぜ父親はここでスワをぶちのめさなかったのでしょうか。娘から死んでしまった方がいいのにと言われた父親なら、ぶちのめして当然とも思えるのですが、なぜなんでしょう。 私が思ったのは、この時すでに二人の関係は、父と娘ではない平等に近い関係、つまり「男と女」の関係になっていたのではないかということです。 だからスワは、父親=男に、あのような「異様」な発言をしたのではなかったか、と感じたのであります。(そしてもちろん、そんな思考をスワに可能にさせたのは死んだ学生の存在ですね。) 山中の中でも、特に他の小屋から離れたところに建てられている二人の炭焼き小屋の、閉鎖された空間の中で「性的な行為」は日常的とは言わないまでも、少なくともすでに複数回は行われていたのではないでしょうか。 その事の意味を分からず初めは受け入れていたスワが、たった一人の友達であった学生を知り、その死を一番そばで目撃し、そして滝からの囁きを聞いて学んでいきます。 そんなスワだからこそ、この父親と対峙するような烈しい言葉が発せられたのだと思います。 いや、「性的な行為」が完遂したのは、あるいはあの夜が初めてだったのかも知れません。 酔って帰ってきた父親。めずらしく髪を結って眠っている娘。先日の、娘の成熟を感じさせるような烈しい言葉。……。 スワの「疼痛」は、そのようにして起こったのかも知れません。 大蛇になった悲しい八郎が泳いでいる川。たった一人のともだちが滑り落ちた滝壺。そして、父親によってなされたレイプ。 ふぶきの中でスワのたどり着いた滝は、その時スワに極めて誘惑的な姿を見せていたのかも知れません。 そこには八郎がいて、学生がいて、そして、この話に決定的に欠落している「母親」の姿も。滝壺と母親の相似。母親に愛されなかった太宰治。……。 東北の山そばで暮らす貧しい人々の悲惨な現実と民話を、太宰治は徹底的な省筆を用いることで、極めて美しい伝説に昇華しました。 できあがった作品に対して、私は、「見事」と言う言葉しか持ちません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.12.22 06:38:01
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