|
全て
| カテゴリ未分類
| 明治期・反自然漱石
| 大正期・白樺派
| 明治期・写実主義
| 昭和期・歴史小説
| 平成期・平成期作家
| 昭和期・後半男性
| 昭和期・一次戦後派
| 昭和期・三十年男性
| 昭和期・プロ文学
| 大正期・私小説
| 明治期・耽美主義
| 明治期・明治末期
| 昭和期・内向の世代
| 昭和期・昭和十年代
| 明治期・浪漫主義
| 昭和期・第三の新人
| 大正期・大正期全般
| 昭和期・新感覚派
| 昭和~・評論家
| 昭和期・新戯作派
| 昭和期・二次戦後派
| 昭和期・三十年女性
| 昭和期・後半女性
| 昭和期・中間小説
| 昭和期・新興芸術派
| 昭和期・新心理主義
| 明治期・自然主義
| 昭和期・転向文学
| 昭和期・他の芸術派
| 明治~・詩歌俳人
| 明治期・反自然鴎外
| 明治~・劇作家
| 大正期・新現実主義
| 明治期・開化過渡期
| 令和期・令和期作家
カテゴリ:昭和期・一次戦後派
『夜半楽』中村真一郎(新潮文庫) 中村真一郎といえば、加藤周一なんかとお友達の方で、そしてあの辺の方というのは、とにかく博覧強記というイメージがあって、私としては、いかにも「敬して遠ざける」というお方でありました。 少し前の話ですが、作家の車谷長吉氏が新聞で人生相談の相談員をなさっていて、ある相談回答の中に少し面白い事が書かれてあったのを読みました。 車谷氏は、人間の頭(知力ですかね)を四つのグループに分けていました。こんな感じです。 良い頭・悪い頭・強い頭・弱い頭 そして、この中で小説家に相応しいのは「強い頭」であり、「良い頭」は実は小説が書けない、と。なぜなら、良い頭は、悪い頭や弱い頭の存在や理解に耐えられないからだ、と。(たぶんこんな内容だったと思いますが、ひょっとしたらいつもの様に、私のバイアスが掛かっているかも知れません。) なかなか面白いまとめ方ですね。(もちろんこのルールからはみ出すものもあろう事は、車谷氏もご存じでありましょうが。) そして、そんな「良い頭」ゆえに小説が書けなかった人の例として、確か明治時代の哲学者を挙げていましたが、残念ながら鶏頭(「ニワトリアタマ」=三歩歩けば忘れてしまう五番目の顰蹙頭)の私は、失念致しました。 えーっと、これもまた、とってもバイアスの掛かった言い方ですが、冒頭に書いたお二人の文学者って、そんな感じ、しませんか?(わー、ごめんなさい。) ま、とにかく、私はこの本を、少し難しそうな小説かなとの予感に怯えながら(とは、もちろん誇張表現ですがー。)読み始め、そして、読了しました。 ……うーん、例えばこんな文章はどうなんでしょうか。 ……人は若し現在の状況から自由になることができれば、運命の手が直ちにありありと見えてくるものだ。一年も経って振り返れば、どうしてこんな自明のことに気付かなかったのか、と己れの愚かさに呆れる筈だ。(しかし、呆れながらも、又、現在の自分の前に、新たな運命の手が差し出されていることには盲目なのだが。)要するに、私たちは遺憾ながら時間の絆から自由にはなれない。その状況から抜け出ることのできるのは、神だけなのだろう、(若し神があるとしての話だが。……いや、神は――それは存在するにせよ、しないにせよ、かかり合ったら大変なことになることは、もう少し先の方に手痛い実例がある。) 全編こんな感じの文章が、続くんですね。 曰わく、エクスキューズが多い、大袈裟な意味づけの予告が多い、といった。 ただ全編が、一人称の告白体と日記や手紙によって構成されていますから、まー、これは筆者の技巧だといえば技巧なんでしょうが、そのことも含めて、技巧的・観念的という言い方もできると思うんですが、どうでしょう。 お話は、四十歳過ぎの旧制高校教師の夫婦と、二十歳の男女学生が2ペアの不倫をするというものなんですね。(不倫舞台は、昭和初年頃です。) 六十歳前に亡くなった教師が書いた十五年前の日記(不倫当時の日記)記述と、三十五歳になった元男子学生の、それを読みながら当時を思い出した告白とが、交互に描かれる構成になっています。 この構成が既に技巧的ですよね。こんな重層的な感じになります。 (1)一つの出来事を、三十五歳の男がかつての二十歳の学生の立場で「近過去回想」として表す。 (2)同じ出来事を、三十五歳の男が現在の立場で「遠過去解釈」として表す。 (3)同じ出来事を、六十歳前で亡くなった別の男が十五年前に書いた日記という形で「リアルタイムの出来事」として表す。 (4)そして、全ての表現において、その内容が作為的無作為的を問わず、実際の出来事通りであったかどうかは分からない。 とっても技巧的ですね。この辺は、沢山の小説を読んで博覧強記になって、そしてそれを生かした「プロの芸」を、筆者が我々に惜しむことなく見せてくれているように思えます。面白いです。 ただ、このように書かれた話のテーマが、最終的には「インテリゲンチャの認識の不毛」という感じで収束してしまうことについて、私はこの作品の歴史的な限界を少し感じました。(特に最終章の「くどさ」。) しかし一方、筆者はそんなことはもとより承知で、「限界」というならば例えば漱石作品などからも伺える「近代知識人の苦悩」、その「歴史的な限界」こそを、パロディとしてシニカルにかつ一種グロテスクなイメージすら伴う書きぶりで表したのである、と。 ……『夜半楽』の意味がよく分からなかったので少し調べてみたのですが、雅楽曲のタイトルであり、どうも人々の集会の終わりに演奏される曲でもあったと知りました。 なるほど『蛍の光』なのか、と。 つまり、「知識人の黄昏」なのでありましょうか。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.01.15 10:08:21
コメント(0) | コメントを書く
[昭和期・一次戦後派] カテゴリの最新記事
|
|