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2011.01.19
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カテゴリ:明治期・自然主義

  『嵐』島崎藤村(岩波文庫)

 島崎藤村と言えば、毀誉褒貶の喧しいお方ですね。
 近代日本文学史を代表するような文豪の一人でありながら、しかしまっぷたつに分かれた評価があるようです。そして「毀」「貶」の方の直接の対象は、もっぱら藤村本人の「人間性」についてであります。
 その原因は、小説のモデル問題などがあったりすることもさりながら、(盟友・田山花袋の臨終シーンの有名なエピソードも、すごくマイナスのインパクトがありますよね。)最も影響あるイメージは、なんといっても小説『新生』をめぐる事件でしょう。

 私もそんなイメージに影響されてか、藤村に対して、何となくあまりよい感じは持っていませんでした。
 しかしそれは、上記にあるごとく作者の人間性に関する褒貶で、作品は関係ないじゃないかという(極めてもっともな)意見もありますが、ところがさて、それがそう思いづらいものが、私のよくない癖でしょうが、私の中にあります。

 それは簡単に言いますと、芸術的な完成を人格的な完成と連動させるという考え方ですね。高い人間性のあるものが、優れた芸術を作り出すのだという考え方であります。

 一方で、何を言っている、芸術性と作者の人格など全く関係ないじゃないかと、あっさりとおっしゃる方もいますね。
 私も、音楽とか美術とかについてなら、かなりそんな気もします。
 音楽・美術といった芸術ジャンルにおいて、作品とはストレートに感性の表出であり、その感性の能力は、「人間性」という一種理性のフィルターを通して現れるものとは、確かにあまり関わり合わないような気がします。

 じゃ、文学はどうなんだと言うことについて、先日私は、たまたま伊藤整がこんな事を書いている文章を目にしました。

 私小説作家の根本にある考え方の一つとして、自分がいかに生くべきか、という意識がある。そして、いかに生くべきかということが、更に二つに分裂しているので、一つは良心的に生きようとする事であり、もう一つは良心的に作品を書こうとすることである。(「近代日本の作家の創作方法」)

 「良心的」という言葉がポイントですよね。
 これは小説家(引用部には「私小説作家」と書かれてありますが、伊藤整の文章の別の箇所には「私小説」「客観小説」の差は作家の根元的意識においては、さほど違いはないと書かれてあります。)だけのものでしょうかね、音楽家とか美術家にはあまりそういったものはないんでしょうね。
 何となくそんな気がしますよね。「良心的に生きよう」とすることが、やはり文学においては特に、優れた作品に繋がるような気がするのですが、ちょっと荒っぽい理論ですかね。

 さて、冒頭の小説の読書報告から大きく離れてしまったような気がしますが(まー、いつものことでありますが)、あまりいい感じを持っていない藤村でしたが、この短編集は、小さいものながらなかなかよかったです。
 三つのお話が入っています。これです。

  『伸び支度』・『嵐』・『分配』

 この三作は、藤村の実際の年譜通り、妻が亡くなって後、子供四人(男児三人に末子の女児)を彼が育てたその日々が書かれてあります。
 そして、いつもの藤村の長編に似ず(!?)とってもとっても、素直で素朴です。

 『伸び支度』という短編は、娘の初潮を取り上げたお話ですが、父親が娘の初潮に戸惑いを覚えるのは、それが自分の与り知らぬ経験であるという以上に、もはや娘を、お気に入りの縫いぐるみのように扱えなくなるせいだと、さり気なく捉えている所など、「老獪」藤村とはとても思えないいい話です。
 後二編の短編小説にしても、子供を思う親心を中心に据えた、いつになく安定した情緒を描いた作品となっています。

 しかしそんな作品のタイトルが、『嵐』であるということについて、作中には、子育てに忙しい日々や、背景となった時代の世相が「嵐」なのだと描かれていますが、たぶんそれは「韜晦」でしょう。

 「嵐」とは、彼の子育て期間とちょうどきっちり重なった『新生』事件のことであろうと思います。この姪との不倫事件は、それ以外にも幾つかあった藤村の人生の危機の中でも、最も大きな危機であったことは間違いありません。

 彼はこの危機に曝され、生きるか死ぬかという瀬戸際まで押し込まれ、そしてそのぎりぎりの土俵際で、自ら作品としてそれを発表するという「破れかぶれ」の離れ業をあみだしました。
 後世、このことが自分の評価としてマイナスになろう事はたぶん自覚しながらも、社会的に葬られる可能性まであったその最中において、一か八かのこの決断は、強烈な意志力に基づく判断と実行であったろうと思われます。

 そんな「嵐」を、小説『新生』を発表することで何とか凌ぎきった後の、そして次の大作となる『夜明け前』の準備が始まるまでの、束の間のエアポケットのような日々、これが、本作における藤村らしくない「素直・素朴」さの正体ではないかと、私は感じました。

 しかし、ねー、……くどいようですが、『嵐』というタイトル。
 こんなタイトルをしゃあしゃあと付ける藤村には、やはり「老獪」「狡猾」といったイメージが見え隠れし、そういえばどこか鼻白む感じが、……うーん、しますかねー。


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Last updated  2011.01.19 06:30:44
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