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2011.03.23
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カテゴリ:明治~・詩歌俳人

  『郷愁の詩人・与謝蕪村』萩原朔太郎(岩波文庫)

 こんな俳句が紹介してありましたよ。

   水仙や寒き都のここかしこ

 優しい感じの、可愛い俳句ですよねー。
 しかし、単に可愛いだけではなくて、「寒き都」の語が句全体をぴしっと引き締めているのがよく分かります。

 この句について筆者は、「芭蕉の『菊の香や奈良には古き仏たち』と双絶する佳句であろう。」と書いています。
 かなり高い評価ですねー。
 しかし、ちょっと、誉めすぎ、じゃ、ないですかね。

 こんな句の鑑賞もありました。ちょっと工夫して、問題形式にしてみますね。

 問1・次の句中の「人間」の読みは、ア・イのどちらがふさわしいか。
    それぞれの読みの場合の解釈と、鑑賞もあわせて書け。

   人間に鶯鳴くや山桜

   ア・にんげん    イ・ひとあい

 どうですか。なかなか難しいですね。
 あっさり解答を書いてしまいますと、筆者はまずこんなふうに解釈しています。

 「人里離れた深山の奥、春昼の光を浴びて、山桜が咲いているのである。」

 と、ここまではア・イ共に同じで、違いはここからです。
   ア・にんげん……「人間に驚いて鶯が鳴く」
   イ・ひとあい……「行人の絶間絶間に鶯が鳴く」

 なるほど。言われてみればその通り、という解釈ですね。
 で、問題は(「問題」というほどのものでは全然ないんですが)、筆者がそれぞれの読みをどの様に鑑賞して、そしてどちらの読みを「よし」としているかなんですが、どう思いますか。
 筆者はこう述べます。

 ア→「人間」という言葉によって、それ(山桜が咲いていること)が如何にも物珍しく、人跡全く絶えた山中であり、稀れに鳴く鶯のみが、四辺の静寂を破っていることを表象している。
 イ→句の修辞から見れば、この解釈の方が穏当であり、無理がないように思われる。

 と書いて、最後はこう締めています。

 「しかしこの句の生命は、『人間(にんげん)』という言葉の奇警で力強い表現に存するのだから、(略)(『ひとあい』と)読むとすれば、平凡で力のない作に変わってしまう。」

 ここまで書かれてしまうと、とたんに、よくわからないんですよねー。言葉の意味が入ってこない。そんなことありませんか。
 それはつまり、こういうことではないでしょうか。

 本書は、蕪村論と個々の俳句の解釈と鑑賞、「春風馬堤曲」という破天荒な「新体詩」についての論述、そしてその他として「芭蕉私論」よりなっています。

 筆者は、蕪村の芸術性の中心を、「青春的」「音楽的」そして「郷愁」と捉えます。
 ほぼ、納得のいく論理展開なんですが、ただこの評論を読んで私達が強く感じるのは、この蕪村像こそ朔太郎の自画像ではないかということです。
 例えば、朔太郎のこの詩。

  蛙が殺された、
  子供がまるくなつて手をあげた、
  みんないつしよに、
  かはゆらしい、
  血だらけの手をあげた、
  月が出た、
  丘の上に人が立つてゐる。
  帽子の下に顏がある。 
                 (『蛙の死』)


 芸術作品は、ことごとくが筆者の自画像であるとは、すでにしばしば語られることであります。
 本作も、蕪村についての文芸評論と捉えるよりは、詩人・朔太郎の蕪村をめぐる詩的随想と捉えた方がいいかも知れません。
 そう考えると、筆者の鑑賞に対して「違和感」を持ったとしても理解はできるし、なによりその方が、朔太郎の表現に対して、遙かに柔軟に楽しく読むことができそうに思います。


 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓

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Last updated  2011.03.23 06:28:40
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