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カテゴリ:昭和期・三十年男性
『安土往還記』辻邦生(新潮文庫) まだ一度も読んだことのない作家で、読めばきっと凄いんだろうなと思う人は、こんなブログをごそごそと書いているせいで、近代日本文学史に限っては、何となく少なくなってきたような気がします。(いえ、それは間違いで、本当はまだまだいっぱいいらっしゃるのだという気も、一方では少ししているんですが。) それはもちろん近代日本文学に限ってのことで、世界文学に広げれば、そんな作家は星の数ほどいるんだろうなという認識はあります。 まーしかし、いちおー、近代日本文学で少し頑張ってみるかと決めてしまった手前、それは「死児の齢を数える」って、この慣用句は使い方がだいぶおかしいですよね。 さてそんな私にとって、少なくなった(?)「読めばきっと凄いんだろーな作家」の一人が、この辻邦生氏でありました。 この度初めて読みまして、えらいもんですねー、やはり思っていた通りでありました。 というのも、別に私の直感力が優れているとかいうことではなくて(当たり前だ)、要するに「以前よりかねがねお噂をお聞きいたしておりまして」状態であったからですね。 それともう一つ挙げれば、文学史上の位置づけが、ほぼ「一匹狼」状態であるということも、私の「カン」の発動理由ではあります。 こういう文学史上の一匹狼作家というのは、やはり結構凄いんですね。 なぜかと言うに、そもそも文学史なんかを書こうと思うような方は、まー、それをすっきり整理したいと思ってなさるのに違いないんですね。 その整理の「視点」が極めて独自のもので、そしてとても「整理能力」の優れたものならば申し分ないと言うことで、きっとお考えなんですよね。 で、文学史上の作家と作品をグルーピングしていって、てきぱきときちんと戸棚にしまっていきます。 ところがここに、どーにもどこに入れていいのか迷うやっかいな作家や作品が残ったりするんですね、これが。 いっそ、なかったことにして棄てちゃえとも思うんですが、「文学史家的良心」がそれも許さず、仕方なく整理しきれない作家として「一匹狼」が残る、という寸法であります。 だからそんな作家や作品は、独創性と質の高さにおいて看過できないものであると、そういう論理であります。(うーん、我ながら実に優れた論理展開ですね。) というわけで、私はこの度、凄く面白い小説を読みました。 何が凄いかと言えば、この小説が、織田信長をモデルとし彼の「仕事」、それは評価されるものもされないものも含めて、その「意味」と「動機」を分析していくというテーマ、そしてそのテーマをしっかりと支えていく丁寧かつ的確な表現力、つまりは「本格小説」としての凄さ、ということでありましょうか。 例えば信長の行動原則を、筆者はこのように書きます。 (文中では信長は、「大殿」と呼ばれ「シニョーレ」とルビがされています。語り手はポルトガル人であります。) とすれば、大殿が聖域を焼却して僧俗男女を一人残らず殺害したことも、北方軍団を壊滅させその総帥の首を冷然と見つめることも、ただ一つの原則――すなわち反対勢力を無に至らしめ、力の対立を完全に解消すること――を、数学的な明晰さによって押し進めたにすぎない。大殿にとっては、この原則に純粋に忠実であることが――歯を食いしばってもこの原則をつらぬきとおすことが――それだけが、彼の人間的な意味でもあり、精神の尊厳をまもる所以でもあったのだ。 信長をこのような人物と設定して歴史を書き直すわけですね。そしてその試みは、かなり説得力のあるものと、私には映りました。 ただ、このような行動原則を持つ者が、圧倒的な孤独によって精神を蝕まれないわけにはいきません。 作品終盤に宣教師のヴァリニャーニという人物が現れ、信長の内面との類似を語る人物として描かれますが、作品としては、このあたりから少し求心力に欠けていくような気がいたしました。信長の孤独の説明としては、やや観念的ではなかったか、と。 つまり、終盤に描かれる信長像は、それほどまでに日々孤独の業火に焼かれようとしている姿であり、その絶対的な孤独感は、本能寺で殺されることが、ひょっとすれば彼にとって救いではなかったかと思ってしまうくらいであります。 もちろんこれは、一読者としての私の思いつきにすぎないのですが、そんな風に思うほど出口のない孤独感が描かれていることについて、二十世紀に生きていた筆者にどんな人間認識があったのか。 それはさて、さらに別の作品を手にとってからのこととなりましょうけれど……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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