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2011.06.15
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  『山椒魚・遙拝隊長』井伏鱒二(岩波文庫)

 上記短編集の読書報告の後半であります。
 前半の最後に触れていたのは、井伏鱒二はそもそも地味ーな印象の小説家ではありますが、没年を真ん中に、前後二回ほど、文壇・出版界関係で、少し話題になったことがあったということでした。
 その二回とは、この二つの件であります。

 (1)1985年・『自選全集』の出版。
 (2)2000年・猪瀬直樹著『ピカレスク』の出版。


 で、(2)については、すでに以前の本ブログでも触れました。井伏鱒二「剽窃疑惑」ですね。
 しかし考えてみれば、これはわりと大変な「事件」だと思うんですが、どうなんでしょう。
 関係者の多くがまだ生きていたり、それに何といっても、中心の小説家がかつてノーベル文学賞候補であったりと「大物」過ぎるせいもあって(しかも「剽窃疑惑」の作品が、ノーベル文学賞候補作品として高く評価されている『黒い雨』ですから)、なかなかそう簡単には、一足飛びに解決しないもののようですね。

 こういう「事件」って、多分作者死後百年くらい経たなければ「定説」は定まらないのかも知れませんね。
 一体どうなってしまうのか、ちょっと知りたいですが、うーん、百年後ではねぇ。

 というのがおおざっぱに(2)の内容です。
 で、(1)はというと、これは1985年に出版された『自選全集』の収録作品を選ぶ過程において、なんと作者が六十年以上も前に書かれた作品を大きく書き換えたと言うことで、一気に話題になりました。

 それも書き換えた作品は、井伏鱒二の代表作であると同時に、教科書などにも何度も収録され、すでに「昭和の古典」「国民の共有文化財産」といってもいい作品『山椒魚』だったんですねー。

 『山椒魚』の作品最後の個所を、晩年の井伏は大きく抉るように削ってしまいました。
 これには、驚きましたね。
 そして削ることでどうなったかというと、すっごく「ニヒリスティック」な作品に、実も蓋もない、「救い」のないような物語になってしまったんですねー。

 この「事件」が新聞に載った時の事を、私も覚えています。私も記事を読んで、思わず唸ってしまいました。
 確かその新聞には、さらにいくつかの作品について、井伏が今後手を加える予定があるといった記事もあったと思います。

 後日、作家の野坂昭如の書いた、ほとんど悲鳴を上げるような口調で反対していた記事も覚えています。
 もはや国民の共有文化財産となっているような作品は、たとえ作者であっても、手を加えるべきではないと言う趣旨でした。
 井伏の改変予定作の中には、確か名作『鯉』もあったように記憶します。

 さてそんな井伏作品の初期の傑作選が、今回取り上げた短編小説集です。こんな九つの話が入っています。

 『山椒魚』『鯉』『屋根の上のサワン』『休憩時間』『夜ふけと梅の花』『丹下氏邸』
 『「槌ツァ」と「九郎治ツァン」はけんかして私は用語について煩悶すること』
 『へんろう宿』『遙拝隊長』


 今私は上記に「初期の傑作選」と書きましたが、全くその言葉の通りという気がします。
 まさに珠玉のような短編小説が、散りばめられてあります。
 そして、これらの作品を順に読んでいくと、見事に、井伏鱒二の短編小説の熟練過程とか、テーマへの試行錯誤が見られるようで、これもとても興味深かったです。

 最初の三作は、明らかにポエジーの魅力でしょう。
 動物を取り上げた設定と融合して、哀愁の漂う詩情が全編から立ち上ってくるようです。
 私は個人的に『鯉』が最も良いと思いました。ラストシーンの素晴らしさは、これらの作品の中でも頭ひとつ抜けています。

 ただ、何時までも「詩情」の中にばかり浸ってはいられないと言うのが、「生きる」小説家の大変なところであります。
 うぶなねんねじゃあるまいし、いつまで素朴の中でカマトトぶっているんだという声が、なにより作家の心の中から聞こえてきます。そして、生きる作家の苦悩がそこから始まります。

 いくつかの苦悩や試みがありそれの最初の結実が、本短編集で言えば『へんろう宿』と『遙拝隊長』でしょう。
 これは素晴らしい作品だと思います。諧謔と言語と庶民と叙情と、そして存在の悲しみが見事に結合して、間然とするところがありません。ポエジーが底光りしています。

 しかし思うに、本当に「生きていく作家」というのは大変なものですね。
 それはいわゆる「芸術家」の運命というものなんでしょうか。

 猪瀬直樹の前掲の評論に、井伏が自らのキャリアを振り返って「身過ぎ世過ぎ」と言う言葉を用いたこと、前掲の『自選全集』から『黒い雨』を外そうとして、出版社から懇願されるように説得されたこと、そんなことが書かれてありました。

 そんな晩年の井伏の姿に、私はふと、どこか背筋の寒くなるような、芸術家の運命というものを感じるのでありました。


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Last updated  2011.06.15 06:36:09
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