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カテゴリ:昭和期・新感覚派
『ヴァニラとマニラ』稲垣足穂(河出書房文庫) 上記作品の読書報告の後半であります。 前回は、本書に収録の5つの作品中、「ノンフィクション」系の4つを少しだけ取り上げてみました。本来ならば、これだけで語れる人は延々と語るであろう、「少年愛」や「A感覚」に関する評論であります。 とっても面白いんですが、ちょっと底なし沼のようなところが、私には気味悪くもありました。 さて今回は、本書の中の唯一の小説作品『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』について少し感想を書いてみたいと思います。 そもそもこの作品が読みたくって私は本書を買ったのですが、その切っ掛けは三島由紀夫の『小説とは何か』であります。 この三島の絶筆評論とも言える作品は、何度読んでもサジェストされることが多く、一部はったりのように感じるところもありながら、やはり頭の良いお方はなるほど上手に考えて書くものだなあと感心させられてしまいます。 さてそんな三島が、足穂の本小説をどのように書いているかといいますと、まー、ほぼ「絶賛」ですね。 「私が最近読んだ小説のうち、これこそ疑ひやうのない傑作」 と、書いてあります。これは、少々探し出す手間が掛かっても読まざるを得ないでしょう。 と言うわけで私も読んでみました。 で思ったのは、ああ、いかにも三島好みの話だなあという感想と、そして、この手の話に対する三島の批評眼は、やはり鋭いものがあると感じさせられる作品だということでした。 三島由紀夫はこのように書いています。 これこそ正に小説の機能ではないだらうか。しかも稲垣氏は、決して観念的なあるひは詩的な文体をも用ひず、何一つ解説もせず、思想も説かず、一見平板な、いかにも豪胆な少年の呑気な観察を思はせる抒述のうちに、どことはなしに西洋風なハイカラ味を漂はせて、悠々と一編の物語を語り終つてしまふのである。 悲しいことには、このやうな縹渺たる文学的効果は、現代もつとも理解されにくいものの一つになつてしまつた。人々はもつとアクチュアルな主題だの、時代の緊急な要求だの、現代に生きる人間の或る心もとなさだの、疎外感だの、家庭の崩壊だの、性の無力感だの、(ああ、ああ、もう全く耳にタコができた!)さういふものについてばかり、あるひは巧みに、あるひはわざと拙劣に、さまざまな文学的技巧を用ひて書きつづけ、人々は又、小説とはさういふものだと思つてゐる。自分の顔(実は自分がさうだらうと見当をつけてゐる自分の顔)を、すぐさま小説の中に見つけ出さなくては、読むはうも書くはうも不安なのだ。これはかなり莫迦げた状況ではなからうか。 これは、三島由紀夫がしばしば語る「言語芸術の独立性」という小説観の延長上の作品批評でありますね。 三島は、小説世界は現実世界と等質で、かつ完璧な独立性を持つと述べています。そして彼は、そんな小説を、動物園で怠惰に寝転がっている「象アザラシ」に例えました。 (ちなみに、音楽作品や美術作品については、自立性独立性は持つものの、現実世界とは等質性を持たないと三島は述べています。) そんな本小説とはどんな話かといえば、舞台は江戸時代、十代後半の豪胆な青年の住む家に、一ヶ月間、狐狸妖怪の類が毎晩(後半は昼間も)怪異現象をもって訪れるという話であります。 ねっ。いかにも三島好みのお話っぽいでしょ。 三島はこの小説の面白さを二段構えと捉え、まず前半の登場する妖怪のバラエティーの豊富さを指摘します。そして次に、終盤に登場する「山ン本五郎左衛門」描写の鮮やかさを絶賛します。 ただ、私のような素人が読んでいて感心するのは、やはり前半部の、次々と現れてくる妖怪を書き分ける、底知れないような想像力の豊かさであります。 化け物話といえば、誰もがすぐに泉鏡花を連想すると思いますが、あの鏡花作品に現れる化け物の醜怪さと滑稽さ、そして魑魅魍魎でありながらも身に備わる清廉さのようなもの(鏡花世界では、もちろん人間の方に本当に醜悪な種族がいます)が、ほとんどそのまま本書の妖怪の姿でもあります。 「鬼神ニ横道ナシ」とは本文中に出てくるフレーズですが、一ヶ月間そんな怪異現象に脅かされ続けた主人公の青年は、最後に妖怪世界の「魔王」のような存在と対面し、そして彼らが去っていくのを確認した後、「山ン本サン、気ガ向イタラ又オ出デ!」と語りかけます。 そして、この主人公の科白に呼応して書かれる作品の最後の一節が、実に水際立っています。 一体、愛の経験は、あとではそれがなくては堪えられなくなるという欠点を持っている。だから主人公達は大抵身を持ち崩してしまう。 なるほど、本書に唯一収められている小説と、他の「少年愛」の評論とは、こんなところで通底しているのだなと、ふと気付かされる見事なエンディングでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.01.07 09:51:14
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