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2012.07.08
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カテゴリ:明治期・自然主義

  『何処へ・泥人形』正宗白鳥(岩波文庫)

 この短編集には、4つの作品が収録されています。

  『玉突屋』『何処へ』『泥人形』『牛部屋の臭ひ』

 最初の『玉突屋』というのだけ、あまり有名ではないですが(文庫本で5ページばかりの掌編です。内容的にも、何といいますか、ちょっと掠っただけ、では言い過ぎでしょーかー)、他の作品は、筆者の作品の中では、文学史の本に名前が出てくるような「有名作」ですね。(といっても、正宗白鳥ですから、現在、正宗白鳥の名前を知っている人なんて、全国民の0.005%、普通預金の金利程度かな、と思いますがー。)

 この3つの短編と、後、『微光』なんてお話がもう一つで、これでほぼ、正宗白鳥の代表作は(小説についてですが)、「コンプリート」で良いんじゃないでしょうか。

 と、少々冗談じみて書きましたが、しかし実はこの短編集は、かなり出来が良いと私は思いました。
 以前、我が家の本棚の肥料になっている「筑摩現代日本文学大系・全97巻別巻1」について触れたことがありました。2冊の配本になっている作家が5人いて、まー、これは日本近代文学史上の「大家」であろう、と。具体的に言いますと、鴎外・藤村・漱石・荷風・谷崎であります。

 その次の、一冊まるまるあてがわれている文学者(これもまー、「文豪」といってもいいんじゃないですかね)が12人いて、その中に正宗白鳥も入っていることに、何といいますか、私は少々「違和感」、という話をしました。

 しかし、作家のポピュラリティについてはともかく、少なくとも「文章力」については、白鳥はさすがと思わせるところがあると、この度の読書で、物知らずな私も大いに納得いたしました。

 もう少し詳しく見ていきますね。この3作の発表年度はこうなっています。

  『何処へ』(明治41年・1908年・29歳)
  『泥人形』(明治44年・1911年・32歳)
  『牛部屋の臭ひ』(大正5年・1916年・37歳)


 この3作品をこの順番で読んでいけば、作家の筆力がぐんぐん上がっていくのがとてもよく分かります。それはいかにも自然主義的な文体ではありますが、主観性を排除した細かな描写が、正確度を増していく様子がひしひしと分かります。

 一方、正宗白鳥といえば付き物のように言われる「虚無主義」についてですが、以前同筆者の戯曲を、これもまた岩波文庫で読みましたが、その時はよく言われているように強烈な虚無性を私も感じました。

 しかし、今回の3作品には、さほどのものが感じられなかったのですが、それはなぜかなと考えたのですが、一つは、現代文学の一部にある虚無主義に、もっと先鋭的なものがあるせい(単なる心的傾向ではなく、具体的な肉体の破壊とか他者への犯罪的行為とかを伴っているせい)ではないかと思いました。
 現代の虚無主義には、どこか身も蓋もないところがあります。

 もう一つ思ったのは、これは私が本作品に虚無性をあまり感じなかった理由となるのかどうかよく分からないのですが、特に『何処へ』について、この作品で筆者は最初に虚無的であると評されたようですが(本書に筆者による「旧作回顧」があり、そこに長谷川天渓に評されたとあります)、この虚無性は、一連の「戦後文学」に共通するものではないでしょうか。

 例の司馬遼太郎の『坂の上の雲』の日露戦争が終わり、そして啄木が「時代閉塞」と書いた明治の終焉期のことであります。
 白鳥の虚無主義は、この時代の虚無主義ではないのでしょうか。

 社会のため主義のため理想のためと思へばこそ、真面目で険崖上りも出来るが、初めから退屈醒ましと知つて荊棘の中へ足を踏込めるものか。理由もないのに独りで血眼になつて大道を馳せ廻れるものか。何故毎日の出来事、四方の境遇、何一つ自分を刺激し誘惑し虜にするものがないのであらう。只日々世界の色は褪せ行き、幾萬の人間の響動は葦や尾花の戦ぐと同じく、無意義に聞えるやうになつた。自分の心が老いたのか、地球其れ自身が老い果てて、何等の清新の気も宿さなくなつたのであらうか。

 どうですか。これは白鳥独自の思考傾向なのでしょうか。
 日露戦争の終わりに何か大きなものが方向を変えた、というのは有名な「司馬史観」でもありますが(そしてその方向を変えたものが、その後1945年を経ても、しぶとく姿を現そうとしているのではないかと言う危惧が、晩年の司馬遼太郎の危惧であったようですが)、少なくともここに表されているものは、個人的な資質とは異なるもののように私は思います。

 しかし、その後の正宗白鳥は、上記のようなすぐれた作品(よりすぐれた作品)を書きながらも、小説という形態からは離れていきます。
 それは、他の多くの自然主義作家とほぼ軌を一にする部分があることから、自然主義の時代的限界であったろうと思います。けれども、すぐれた少数の「自然主義作家」、それは藤村や徳田秋声のことですが、彼等は、新しい時代の新しい思潮に耐えて、しぶとく長編小説を、その時々に発表し続けます。
 それに比較をすると、実はここにこそ、正宗白鳥の個人的な課題があったはずだと思えるのでありました。

 つまらない参考ながら最後に、上述の「筑摩現代日本文学大系」の話ですが、一人一冊の12人の「文豪」の中に、実は徳田秋声も入っていて、かつての私は、この人にも少々「違和感」、でありました。


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Last updated  2012.07.08 13:54:00
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