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カテゴリ:昭和期・新戯作派
『新釈諸国噺』太宰治(青空文庫) 太宰治の上記作品は、十二作収録されてあるうちの半分が昭和十九年に雑誌に掲載され、残り半分は昭和二十年に書き下ろしとしてまとめられて単行本となりました。同筆者の、昭和二十年に書き下ろし作品として発表された『お伽草紙』と並んで、太平洋戦争末期における、国策文学ではない、数少ない文学作品であります。 確か以前、文芸評論家の奥野健男が書いていました、この時期の日本文学の伝統を引き継いで作品を書いていたのは、ほとんど太宰治ひとりじゃなかったかとの指摘は、大いに的を得ていると思います。そしてそれに合わせ、昭和初年、あれだけほしがっていた芥川賞を貰えなかった太宰が、佐藤春夫に「文壇サヨナラ・ゴルゴダの丘」という言葉をしたためた葉書を投函していたことを思うと、なかなかいろんなことを考えさせるものであります。 さてそんな『新釈諸国噺』ですが、上記に並んで書いた『お伽草紙』が太宰の最高傑作ではないかという評価をされ、私自身も何度となく読んだのと比べると、自分で並び称しておきながら、こちらはちと華やかさに欠けるような気がして、十二作全作をまとめて読んだのは、今回が二度目くらいではなかったかしらと思うのであります。 今回通読してみて、確かに『お伽草紙』よりもかなり地味な感じがしました。そして色彩感に欠けると同時に、テーマの多様性についても、トーンが単一で、やや変化に乏しい気がしました。 そんな中で、いかにも太宰らしい人間観察を感じたのが、第一作目の『貧の意地』であました。 といいますか、実は本作を読む前に、私は真山青果の『小判拾壱両』という戯曲を何も知らずに読みまして、あ、これも太宰が「リメイク」した西鶴作品と同じじゃないかと知ったのでありました。 しかし、微妙に太宰の『貧の意地』と異なっていて、私はその違いにとても興味深いものを感じました。そして、これは一つ原典に当たらぬ訳にはいかないだろうと思い、私は西鶴の本(この二作の原典は『西鶴諸国ばなし』であります)を近所の図書館に借りに行ったのでありました。 で、西鶴の原典の本を借りたのですが、その内容に入る前に驚いたことがありました。 そういえば太宰の本作のはしがきにも「原文は、四百字詰の原稿用紙で二、三枚」とあったのですが、なるほどとても短い、驚くほど短いということであります。 なにかそれは、あっけにとられるような短さであります。この短い話を十倍くらいに広げた太宰も凄いとは思いますが、原稿用紙わずか二.三枚にこれだけの深さのある話をまとめた西鶴が、やはりとんでもなく凄いと、今更ながらわたくしはつくづくと思ったのでありました。 初めて西鶴の二.三枚を読んで分かったのは、太宰の方が原作のストーリーのままに書いてあるということでした。 太宰作品と真山作品のもっとも大きな違いは、この話の肝である一両を出した人物を、真山作品は明示しているというところですが、これは完全に真山青果のオリジナルでありました。真山作品は、そのほかにも全体の結構を大きく変えていました。 で、私は思ったのですが、両作品の優劣比較ではなく、太宰作品に焦点を絞って考えてみると、『貧の意地』のクライマックスは終盤のこの部分ではないか、と。 七人の客は、言われたとおりに、静かに順々に辞し去った。あとで女房は、手燭をともして、玄関に出てみると、小判は無かった。理由のわからぬ戦慄を感じて、 「どなたでしょうね」と夫に聞いた。 原田は眠そうな顔をして、 「わからん。お酒はもう無いか。」と言った。 落ちぶれても、武士はさすがに違うものだと、女房は可憐に緊張して勝手元へ行きお酒の燗に取りかかる。 私は、この部分の「理由のわからぬ戦慄」と「眠そうな顔」をする亭主との対比の中に、太宰が終生様々な形で作品のテーマにし続けた、「小さな必死の者」とでも言えそうな、やはり美しいという表現が妥当である存在が見えるような気がします。 ではこの部分を、西鶴は一体どう書いているのでしょうか。 あるじ即座の分別、座なれたる客のしこなし、かれこれ武士のつきあひ、格別ぞかし。 さすがに西鶴の表現も実に見事なものであります。 なるほど、この原典があって、またこの太宰の「リメイク」ありと言うところでありましょうか。まことに両者共に絶品でありますね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.06.02 17:00:20
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