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カテゴリ:昭和期・新戯作派
『夫婦善哉』織田作之助(岩波文庫) 例えばこんな小さなエピソードのまとめ方。 よくよく貧乏したので、蝶子が小学校を卒えると、あわてて女中奉公に出した。俗に、河童横丁の材木屋の主人から随分と良い条件で話があったので、お辰の顔に思いがけぬ血色が出たが、ゆくゆくは妾にしろとの胆が読めて父親はうんと言わず、日本橋三丁目の古着屋へ馬鹿に悪い条件で女中奉公させた。河童横丁は昔河童が棲んでいたといわれ、忌われて二束三文だったそこの土地を材木屋の先代が買い取って借家を建て、今はきびしく高い家賃も取るから金が出来て、河童は材木屋だと蔭口をきかれていたが、妾が何人もいて若い生血を吸うからという意味もあるらしかった。蝶子はむくむく女めいて、顔立ちも小ぢんまり整い、材木屋はさすがに炯眼だった。(『夫婦善哉』) 文のテンポには、もちろん独特のリズム感があります。でもよく読めば、流れるがごとき名文とまでは行かないような気がします。二文目の冒頭の「俗に」という言葉は、どこに掛かっているのかよく分からなかったりします。 しかし最後の一文は、いかにも上手ではありませんか。 主人公「蝶子」の魅力を描くだけでなく、嫌われ者らしい「材木屋」の人格にも深みを与えています。 本短編集の解説に各作品の初出年月が記されているのですが、この『夫婦善哉』は昭和十五年四月となっており、これも解説に書かれてある実質上の処女作『雨』の昭和十三年十一月からわずか一年半しかたっていません。 一年半でここまで上手になるんですねぇ。 太宰治と、どちらが上手でしょうかね? いえ、ここに太宰を出してきたのは、もちろん同時期の作家で、どちらも文学史の上では「新戯作派」と並び称されているからでありますが、(「新戯作派」といえばもう一人、坂口安吾も有名人ではありますが、私の偏見かもしれませんが、小説に絞って述べれば安吾には「白痴」以外にあまり上手な小説はないんじゃないかとこっそり思っているからでありますが、)……うーん、面と向かって両者を比べてみると、これは、まぁ、やっぱり太宰治の勝ちかなという気がします。 ほぼ同時期の(小説家として同じくらいのキャリアの長さとして考えても、)短編小説としての完成度にはかなり差があるように思います。 本短編集に収録されているの作品(14作あります)の半分くらいは構成がいびつか、そこまで言わないまでも、展開がたどたどしい感じがします。 (このたどたどしさはいったい何なのでしょうかね。わたくしこっそり思うに、伏線の張り方が下手なんじゃないでしょうかね。唐突な、かつ纏まるところのないエピソードが結構書かれてあったりします。) という風に見ていたら気が付いたのですが、この時期の織田作作品の中では「夫婦善哉」だけが(ほとんど奇跡のように)抜きん出てできが良く、その他の作品は習作の域をあまり出ていないんじゃないか、と。 太宰の場合はこんなことはないですね。 処女小説集の『晩年』の時点で、もう作品の完成度はかなり高いです。 太宰のすべての本の中でも、この『晩年』が一番できがいいんじゃないかと言われるくらい、始めっからかなり完成されているように思います。 これも太宰自身の文章で読んだのですが、『晩年』を出すまでに彼は衣装行李(昔の衣装ケースですね)一杯の原稿を書いたと書いていました。さもありなん。 さて織田作に戻りますが、この短編集収録作品を抽出例と考えていいますと、第2次世界大戦が始まってから(昭和十六年以降)がどんどん良くなっています。 だから、現在岩波文庫には本作ともう一冊、戦後の織田作の短編を中心にまとめた『六白金星・可能性の文学』がありますが、個々の作品のできはそちらの方がずっといいです。 最後にもう一つ、小説のストーリーのことで気になる所があるのですがね。 「夫婦善哉」の主人公夫婦に典型的に見られる生き方、つまり店を始めては遊んで潰し、また店を始めては遊んで潰しまた始めては遊んで潰しという懲りない生き方は(遊ぶのはもっぱら男の方ですが)、これはかなり、リアリティというか、感情移入のできる話しであるのでしょうかね。 (ついでに触れておきますと、今回の文庫本の解説でわたくし初めて知ったのですが、「夫婦善哉」の夫婦にはほぼ完璧にモデルがあって、それは織田作の姉夫婦だということでした。へー、なるほどねー。) それにしても、この生き方の「懲りなさ」は、太宰作品にはありませんね。太宰はもっと「クラい」です。(もちろん、だからダメだなんてはまるで言っていません。) 一方織田作作品の主人公達のこの生き方には、絶望を突き抜けた向こう側に思わぬ空間が広がっていたという感じがします。 それは織田作作品の大きな魅力であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.01.16 17:37:02
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