|
全て
| カテゴリ未分類
| 明治期・反自然漱石
| 大正期・白樺派
| 明治期・写実主義
| 昭和期・歴史小説
| 平成期・平成期作家
| 昭和期・後半男性
| 昭和期・一次戦後派
| 昭和期・三十年男性
| 昭和期・プロ文学
| 大正期・私小説
| 明治期・耽美主義
| 明治期・明治末期
| 昭和期・内向の世代
| 昭和期・昭和十年代
| 明治期・浪漫主義
| 昭和期・第三の新人
| 大正期・大正期全般
| 昭和期・新感覚派
| 昭和~・評論家
| 昭和期・新戯作派
| 昭和期・二次戦後派
| 昭和期・三十年女性
| 昭和期・後半女性
| 昭和期・中間小説
| 昭和期・新興芸術派
| 昭和期・新心理主義
| 明治期・自然主義
| 昭和期・転向文学
| 昭和期・他の芸術派
| 明治~・詩歌俳人
| 明治期・反自然鴎外
| 明治~・劇作家
| 大正期・新現実主義
| 明治期・開化過渡期
| 令和期・令和期作家
カテゴリ:昭和期・三十年男性
『恋と女の日本文学』丸谷才一(講談社文庫) 本書を読んでいて、そういえばそうだったなぁ、とつくづく思い出したことがありました。それは、かつて私は丸谷才一のエッセイを繰り返し繰り返し読んでいたっけなぁということです。 ちょっと、我がデーターを調べてみました。 何を調べたかといいますと、私は読んだ本について30年くらい前から読書メモをつけていまして、そのペーパーメモを数年前に、えいやっと半年くらいかけてエクセルデーターにしたんですね。 だから改めて正確に確認しますと、私は1988年から97年の間に46冊の丸谷氏の主にエッセイを読んでいることがわかりました。 ……ふーむ、自分ではもっと頻繁に読んでいたようなイメージがあったのですが、10年間に46冊というのは、多いのかな、さほど多くないのかな。 ともあれ、主観的にはわたくしにとって丸谷エッセイはフェイヴァレットだったなぁということを思い出したのですが、思い出したという表現からわかるように、最近はさほど丸谷エッセイを読んでいなかったんですね(その理由は、まぁ、今回はパス)。 で、久しぶりに読みますと、やはりとっても面白いではありませんか。 かつて私が丸谷エッセイを読みながら感じていた「知の喜び・楽しさ・素晴らしさ」を今回もひしひしと感じました。そして相変わらず達者な全編にあふれる何とも言えないユーア。例えばこんなところは、私は読んでいて思わず吹き出してしまいました。 (本居)宣長の生涯には不思議なことが一杯あるが、とりわけすごいのは、どうしてあんなに和歌が下手だつたのかといふことである。『新古今』が大好きで、何とかしてああいふ歌を詠みたいと念じながら生き、学びつづけた人なのに、本当に才がなかつた。才のなさが凡庸ではなかつた。 こんな感じで本文を抜いていけばキリがないのですが、以下少し話を進めて本書全体のテーマについて見ていきたいと思います。 実は本書のテーマは、筆者による「あとがき」にこう書いてあります。 「日本文学が恋愛と色情に特殊な関心を寄せていること」 なるほど言われてみれば確かに我々素人でも、例えばお正月に家族でやる「百人一首」を何かの拍子にちょっと丁寧に読んでいたらそのように感じたりしますよね。 また、日本古典文学作品の一等賞はおそらく『源氏物語』だといわれますが、しかしあのお話は天皇ファミリーの「不倫」の話じゃないのか、そんなのが一等賞でいーのか、などと思ったりしますよねー。 そんなテーマを、筆者は様々な蘊蓄を交えながら時にじっくり、時に強引に証明していきます。 しかししばし待てよ、と。 そもそも「恋愛と色情(性欲ですかね)」とは生物の二大欲求なんだから、それに文化が文学が関心を寄せるのは当たり前じゃないのか、と思いませんか。 日本文学がらみでちょっと思い出せば、例えば北村透谷は「恋愛は人生の秘鑰である」と書いてますし、太宰治は『津軽』に、私の専門研究分野は愛であると書いています。 第一西洋文学には大恋愛小説が山のようにあるではないか、と。 でもそれは、明治維新以降の話なんですね。日本に近代西洋文化が輸入されて現在に至っているから我々はそんな風に理解してしまうわけで、例えば平安時代、日本人が理解していた国は、日本と中国とインドしかなかったわけですから。(言わずもがなですが「日本、中国、インド」という国名もその頃はありません。「本朝、震旦、天竺」ですか。) つまり本書の論証の本当に面白いところは、古代から中古と呼ばれるその頃、すべての日本文化の偉大なる師匠であった中国文化にほぼ恋愛と色情に対する関心がなかったにもかかわらず、なぜ「弟子」筋であった日本文化(日本文学)が、それらに特殊な関心を寄せたのか、ということであります。 ねっ。こういう風にまとめると興味深いでしょ。 事実とっても興味深い内容なのですが詳しくは書けません。でもひとつだけ、特にけっこう過激なしかし説得力もわりとあるその論証について、さわりの部分だけ紹介してみますね。 丸谷氏は、こう書いています。 中国文化と異なって恋愛と色情が日本文学の中心になったのは、主に平安時代の結婚形態である「招婿婚」(=婚姻の実態が妻方の実家で行われ、夫は夜にそこへ足を運ぶ形式)が日本で長く続いたせいではないか、と。 そしてこのことがなぜ日本文学の恋愛と色情重視の理由になるのかの説明が、この後続くのですが、これがまたとても面白いです。 ……えーっと、なんだか引っ張って引っ張って、そして最後は放り出したような紹介になってしまいました。 しかし、丸谷エッセイの醍醐味は、やはり原文でじっくり味わっていただかねば、と。 ……ということで、すみません。よろしく。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.04.23 14:32:16
コメント(0) | コメントを書く
[昭和期・三十年男性] カテゴリの最新記事
|
|