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カテゴリ:明治~・詩歌俳人
『詩の楽しみ』吉野弘(岩波ジュニア新書) 吉野弘といえば、やはり「I was born」の詩人、ですかね。 教科書なんかにもかなり広く載っている詩であります。 あの詩の中に、少年が「生まれる」の英語が受身形だと気付くというところがあります。ちょっと原文で引用してみますね。 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。 ----やっぱり I was born なんだね---- 父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。 ---- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は 生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね---- このちょっとした言葉に対する「気付き」からこの詩は、圧倒されるような深みに入っていくのですが、この度冒頭の本書を読んで、筆者がこの「気付き」を得たことに大いに納得がいったように思いました。それは、言葉に対する貪欲なばかりのこだわりであります。 さて、本書『詩の楽しみ』です。 詩とは何であるかということは、わたくし憚りながら、大学は文学部国文学科の出身でありまして、愚かながら若かりし頃はあれこれと考えてきたつもりであります。(そんな思索がその後何の役にも立たなかったことは、もちろん言うまでもないことですが。) 本書冒頭にも、「詩の定義は、詩人の数と同じだけある」と書かれています。 そもそも詩とは何かというような、大上段に構えて考える癖があるからあなたは物事が解決しないのだとは、私が、詩を書く友人から言われ続けていることでありますが、本書もその通り、大きな定義には触れず、細かい詩の表現のあり方についてたくさん書かれていました。 そしてそれがたいそう面白かったのですが、そのいくつかを少し紹介してみますね。 でもその前に、やはり大上段みたいな部分なのですが、どんな時に詩が訪れるのかということについて、これは自分の場合と断りながら筆者が語っているところがありまして、ここがなかなか興味深い。ちょっと抜き出してみます。 私の場合、詩は、何かが新しい意味をふくみ、しかしその正体がわからないという状態で、私を訪れることが多いのです。それは、既知の事柄の中に未知の種子がこぼれた状態とでも言えるでしょう。したがって既知の物の見方ではすらすらと書けないのが当然だと私は考え、無理には書かないようにします。放棄するわけではなく、時間を借りるわけです。 いかがですか。この文はほとんど「I was born」のメイキングオブになっていることに気が付きますね。そして、結局の所、詩が、表現の問題と言うよりも物の見方の問題だということが分かります。それを筆者は、別のところではこのように書いています。 ”詩の方法”は、対象への関心、対象への愛着が働かない限り、必要にもならないものだと言うことができます。表現とはある事についての関心の持ち方なのです。関心のないことを表現することはできません。 なかなか興味深い説明ですね。でも言われていることの実践はなかなか難しそうでもあります。 そこで話しは、少々小粒になりますが、表現の「技術」になってきます。 私が特に興味を持ったのはこんな技法でした。 海にゐるのは、 あれは人魚ではないのです。 海にゐるのは、 あれは、浪ばかり。 これは有名な中原中也の「北の海」の一部ですが、筆者は興味深い問いかけをします。この詩から受けるビジュアルイメージを頭の中に浮かべよと言います。 ついでですから、ちょっとやってみましょうか。(以下、少し私流にアレンジしながら進めていきます。) ……いいですか。浮かべましたか。 では、尋ねます。あなたの「北の海」のビジュアルイメージに、人魚の身体(尻尾などの一部であっても)が描かれていた人は、手を挙げてくださーい。はーい。 ……と、やったら多分ほとんどの人の手が挙がるだろうと筆者は述べます。 でもそれは、単に文章が意味を伝えるだけのものならば完全な誤読でありましょう。海に人魚はいないのですから。 しかし、これこそが、詩の言葉なのであります。筆者自身はこう説明しています。 〈人魚ではない〉という言葉を私たちが聞いたとき、私たちの想像力は人魚の像を瞬時に思い浮かべ、理性はそれを打ち消します。しかし、その残像のようなものが少しの間、私たちの意識のスクリーンに漂っています。 また別のところではこんな風にも書いています。 消えたものは、かつてあった状態の想起を私たちに促すからです。(略)私たちが物を強く意識するのは、その物が完全な状態に置かれているときより、不完全だったり歪曲されていたり、欠如・喪失・未完の状態に置かれているときなのです。 ……なるほどねぇ。上手に説明しますねぇ。 そんなことが、あれこれ書かれてありました。(あの、上記の、手を挙げてくださーい、はーい、というのはわたくしの拙いオリジナルです。本文には書かれてません。誤解なきよう。)面白かったです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.01.20 10:06:28
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