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カテゴリ:昭和期・後半女性
『献灯使』多和田葉子(講談社文庫) この文庫の裏表紙の宣伝コピーに、こうあります。 「震災後文学の頂点」 東日本大震災から9年が過ぎて、そろそろ評価の定着した文芸作品が出始めてもいいころであります。(個人的にはもう少し先かなとは思いますが。) そして本作が、このコピー通りにそれに値するのか、……うーん、いえ、これはなかなか難しい問題ですね。 と、私が震災後文学の頂点を評価するというのが、そもそもおこがましくはあるのですが、まぁ、ごく個人的な評価というか、まぁ、「感じ」、ですね。 そんな感じで考えますに、二点、気になるところがあります。 まず一つ目は、多和田葉子氏の東日本大震災(並びに原発事故)に対する位置取りです。 少し前に、私は沼田真佑という芥川賞作家の受賞作を読みましたが、原発事故に係わる描写が、実に実にナーバスに描かれていました。(うかうか読んでいると、原発事故との関連がわからない位に。) なぜこんなに、ほとんど描いていないと同然の描き方をしているのかなと思いましたが、文庫本の解説には、筆者は地震並びに原発事故の直接の体験者ではないとありました。 んー、なかなか難しいものですねー。 また話は飛ぶのですが、少し前に私はこんな本を読んでいました。 『丸山眞男 音楽の対話』中野雄(文春新書) この本によりますと、一時代の日本を代表した知識人・丸山眞男は、かなりのクラシック音楽の愛好家で、その中でもドイツの指揮者フルトヴェングラーに心酔していたということです。 しかし、第二次大戦後、ナチスの戦争犯罪裁判にフルトヴェングラーが掛けられたことを巡って、丸山はフルトヴェングラーは「政治音痴」だとかなり厳しい評価をします。 それに対し、著者の中野雄は(丸山は中野の恩師ですが)、丸山の評価が厳しすぎるんじゃないかとして、いくつかのエピソードを挙げますが、その中にトーマス・マンが出てきて、こんな言葉が記されています。 ――戦時中壮年期にあったドイツの知識階級の、トーマス・マンに対する反感と怨念は凄まじかったですよ。「自分たちを見捨てて、弾の飛んで来ないアメリカに逃げて、安全地帯から言いたい放題のことを言っている。ドイツ人なら同胞と苦しみを分かち合って、内面の自由を守りながら事態を耐え忍ぶべきじゃないのか。フルトヴェングラーはあの限界状況のなかで、ベートーヴェンを演奏し、われわれと共に生き抜いてくれたんだ」というのが彼等の主張なんです。 そしてこんなエピソードも紹介しています。 前夜の空襲で家を破壊され、焼け出されたはずの知人がコンサート会場に来ている。被災は誤報かと思って訊ねてみたら、「いや、未明の空襲でたしかに家はやられました。でも、そうなってみると、フルトヴェングラーの演奏会へ行く以外のどんないいことがぼくにできるでしょう」と答えたという。 ……えーっと、ちょっと本筋から離れすぎました。上記引用文内容について、フルトヴェングラーとトーマス・マンを比較するっていうのも、すこし「ズルい」気はしています。(そもそもの音楽家と文学者の違いは大きいですよね。) えー、本筋に戻ります。 そんな、「位置取り」の話。(これは、当事者以外が事件を書くなということを言っているのでは決してありません、当たり前ながら。あわせて、もちろん時代の違いは、大きくありますよね。) もう一つの私の気にかかる点は、そもそも多和田氏の小説の本来の持ち味とテーマとの関係についてです。 例えばこんなエピソードがあります。 「あの出来事」以来、日本の国は政府そのものが民営化され(政府の民営化という発想のユニークさ)、警察も民営化、本来の仕事をしなくなります。そこのところの一節。 新聞を読んでいても「容疑」、「捜査」、「逮捕」などの言葉を見かけなくなった。生命保険が禁止されたせいで殺人事件はほとんどなくなったという説もあるが、義郎はこの説を鵜呑みにしているわけではない。 どうですか。とってもシニカルなユーモアのセンスですよねー。発想・感覚のユニークさはまさに独創的であります。 また、筆者独自の言葉遊びへの嗜好(例えば、インターネットがなくなった日を祝う日を「御婦裸淫の日」と名付ける)も、いろんなところに顔を出していて、語りの軽妙さをいかんなく発揮しています。 でも、でも私が思うのは、この軽妙さが、本当にこの話に合っているのかがよくわからないということです。 何と言いますか、無いものねだりなのかもしれませんが、誰かもっと「合っている」文体を持つ作家がいそうな気がしないかな、……と、いう感想は、ちょっと、ズルいんでしょうか。 もう少し感想を説明したいのですが、次回に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.08.01 10:56:59
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