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カテゴリ:大正期・新現実主義
『羅生門・鼻・芋粥・偸盗』芥川龍之介(岩波文庫) 前回最後に報告していたのは、「羅生門」執筆直前に芥川が、後々までかなり強烈なトラウマとなる失恋を経験したということでした。 後年芥川は、当時を振り返ってこんな文章を書いています。 悪くこだわった恋愛問題の影響で、一人になると気が沈んだから、その反対になるべく現状とかけ離れた、なるべく愉快な小説が書きたかった。(「あの頃の自分の事」) これもこの度私は知ったのですが、研究者の皆さんはこの文章に少し困ったということです。「羅生門」が「現状とかけ離れた」というのは、いちおー理解できなくもないが、「羅生門」のどこが一体「愉快な小説」なのか、と。 まー、愉快かどうかは極めて個人的な感覚ではありましょうが、前回取り上げた「羅生門」テーマ変遷の1と2の時期においては、エゴイズムや矛盾体である人間を描いた小説を「愉快」とは、……うーん、どのように解釈すればいいのか、と。 ところが、ここに芥川のトラウマ失恋体験があるとわかってきた時、多くの研究者の皆さんは、なーるほどと納得したのであります。(えー、かなりアヤシイ展開ですかね。) 最初、善悪を含め何の行動も起こせなかった下人とは、この恋愛における芥川である。 因循姑息な理論を述べて下人に身ぐるみをはがされ、しかし、それ以上の被害は受けなかった老婆とは、幼馴染の吉田弥生を罵り養父母の恩義と慈悲をいかに考えると一晩芥川に詰め寄った養母のフキである。 だからこそ、下人は老婆の衣服だけをはぎ取り、闇の中を駆け下りたのである、と。 そしてここに、懸案であった「太刀」を重ね合わせると、そもそも「太刀」は男性性の象徴であり、そこに養母フキに対する復讐のイメージが生じた時、「聖」の字を冠する刀は、芥川の矜持や正義感の根拠になったのではないかと、こうつながるのであります。 ということで、何とか、途中かなり切れそうになりながら「太刀」の謎の糸をつないできました。 ところが5編の論文読書の最後に、私は、「羅生門」のテーマが「自己解放」になったが故に、作品としては「破綻」あるいは「後退」してしまったというスリリングな論文を読んでしまいました。 前々回のはじめに紹介した、「『羅生門』私考」(林廣親)という論文です。 この論文の面白さを、最後に紹介します。 まず筆者の最初の問い掛けが、なかなか謎めいています。 作品冒頭の有名な一文「一人の下人が羅生門の下で雨やみを待っていた。」に続いて、羅生門の広い門の下には下人のほかにだれもいないと語り手は述べます。 そしてその理由について、ここ数年続いた災いのせいで京都の町は極限まで疲弊し、門の荒廃もそれに輪をかけて激しく、人々が気味を悪がって近くに寄ってこなくなったからだと説明します。 ここの説明がおかしい、と林先生(この方も大学の先生のようです)は言うんですね。少なくとも説明が足りない、と。 なるほど、言われてみれば、ここには下人以外の者のいない理由は書かれていても、そんな羅生門の下になぜ下人がいるのかの理由は、書かれていません。 うーん。なかなか鋭い目の付け所ですよねー。 作品の語り手はこの後、結局下人が羅生門の下にいることについて「雨に降りこめられた下人が、行き所がなくて」と説明するのですが、これについても林先生は理由付けが弱いと、とても厳しい指摘をします。 そして、書かれていないのならこちらで考えるばかりだとして、こんな風に書きます。 「帰るあてのない彼が、いわば気がついてみればそこにいたのだと解する外はない」 なるほどねー。 しかし、でも、これって、当たり前の事じゃないのと思った貴兄。 貴兄はすでに、林先生の、まるで名探偵コナン君のようないじいじと小出しされていく謎解きの魅力の虜になっています。(いえ、私がそうでした。) 上記の文のポイントは「気がついてみれば」にあります。 つまりこの表現は、この下人は知らず知らずに死体のそばに寄っていく人格であるということを表しています。 本来ならば、ここで芥川が描くのは、そんな主人公下人の異常な心理や人格であるはずです。そして作品の展開は、それについて、この後深く食い込んで説明がなされていくだろうと我々読者は予想します。 しかし、現在の「羅生門」は、そうなっていません。 なぜなのか。 この「破綻」について、……えー、もう一回、続けさせてください。 すみません。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.08.30 08:25:16
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