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カテゴリ:明治~・詩歌俳人
『神戸・続神戸』西東三鬼(新潮文庫) 例によって古本屋さんで見つけた文庫本であります。 「『おすすめ文庫王国2020』年間最優秀文庫編集者賞受賞」と、本の帯にあります。 何が何だかよくわからないと思うのは、単に私が世間知らずだからでしょうか。 何なの、この賞? とにかく本書を見つけた私は、西東三鬼といえば「ガバリ」の人じゃなかったかな……、「ガバリ」の上はなんていったかな……、というほとんど白痴的認識で、でもまー、安かったので買って帰りました。 後日読書の友人に、西東三鬼の文庫本が新しく「名著復活」(これも、文庫本の帯にあったコピーです)で出ていたよと言うと、彼は「水枕……」と即座に言ったので、私は、 水枕ガバリと寒い冬がある という、三鬼の代表句をやっと思い出しました。 本書を読んだ後、少しだけちらちらと西東三鬼について調べますと、この句は三鬼にとって「俳句開眼」と言うべき名句であると、いくつかの評論に異口同音に書かれてありました。 なるほど、難しいことはよくわからないながら、この「ガバリ」という擬音語はいかにも独創にあふれ印象的な一語であります。私がぼんやり「ガバリ」だけを覚えていたというのは、我がことながら割と作品の真髄を射貫いていたのかもしれません、というのは、厚かましい考え……。 ということで本書を読んでみました。 読み始めてまず心地よかったのは、流れるような文の運びでありました。 それは、流れるようになめらかでありながら、水があらゆる小さな窪みにも確実に入り込んでいくように、見事に描かれようとしているものの形を浮かび上がらせている文章でした。 例えばこんな感じ。これは、神戸の怪しげなホテル住まいを始めた主人公と同居している幸薄き女性の描写です。 心楽しまぬ時、波子はホテルにウヨウヨいる仔猫共を集め、順々に蚤を取ってやる。そして、ポツリポツリと自分の生い立ちを語った。そういう日が続くので、私はその話の数々をすっかり覚えてしまったが、私は何度もせびって同じ思い出話をさせた。波子は幼い日の出来事を語る時、いつかその話の中に溶け込み、しずかに涙を流すこともあったが、その涙は、現在の危険な自活方法をも洗い流す効果があった。 どうでしょうか。ただ、この表現が読んでいてしっとりとなめらかに心地よいのは、単に文章力のせいだけでないのは明らかで、つまり、そんな女性に接している主人公の行為に我々が心温まるからであります。(引用文中にある「危険な自活方法」とは売春を表します。) 実はそんな一人称の主人公が、描かれているんですね。 そして主人公(筆者と等身大でありましょうが、取り敢えず主人公とします)は、我が身について大いに嘆きながら再三「おせっかい」「不断のおせっかい」と自注します。 なるほど、上記引用文中の「波子」についても、同居しながら何ら恋愛関係があるわけではない女性です。また彼女だけでなく、怪しげなホテルに止宿している娼婦たちや、これも怪しげな外国人たちから、実にいろんなやっかいごとを持ち込まれうんざりしながら、彼は一人一人の揉め事に付き合っていきます。 この行動と心理のちぐはぐさこそが、本書の大きな魅力になっています。 ただこの「おせっかい」な主人公の心中奥に、なんとも形容しがたく深く暗い虚無的なものが潜んでいることも明らかです。 それは、戦後広島の町を主人公が歩く場面に強烈に描かれています。 また、上記に挙げた「ガバリ」の句についても、この作句前後の身辺について、このように書かれています。 私の病気は奇蹟的に癒って、昭和十四年には、職業を変えて会社に関係したり、商売を始めたりしたが、一度覗き見た死の深淵は、眼をつぶりさえすればいつでもありありと現出した。 このような表現を読んでいると、主人公の「おせっかい」とは、詰まるところ彼の虚無感の噴出した一つの形であることがよくわかります。 ただそれが後味の悪いものにならないのは(それどころか、極めて上質な諧謔となって現れているのは)、結局のところ我々の心の中に、それに共鳴する同種の感情があるからでありましょう。 優れた表現者とは、いわゆる琴線に触れるものとして、それらをさり気なくかつ的確に掬い取るのでありましょう。 合わせて、最後になりましたが、昭和十年代の神戸について、 「植民地風の町」「開放的であると同時に、他人のことに干渉しない」「流言のルツボ」「スパイの巣」「全市が闇商人の巣」 などと描かれるその自由でコスモポリタンな魅力を、全編に広く取り上げていることについては、もはや言を重ねる必要もないと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.03.17 09:33:36
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