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カテゴリ:昭和期・中間小説
『殿さまの日』星新一(新潮文庫) 星新一と言えば、やはりわたくしも中学生の頃ですか、何冊か読みました。読みましたが、これも多くの読書少年が多分そうであったように、その後読まなくなってしまうんですね。これは一体何なのでしょうね。 さて、今回報告するのは、時代小説の短編集です。 あの(!)、星新一の時代小説です。 こういうのも、一体どう考えたらいいんでしょうかね。 というのは、読了後私があれこれと考えたからですね。読者にあれこれ考えさせるというのは、名作の条件だと思うのですが、この度の私の場合は、作品そのものからと言うより、その作品に入る前に、という感じのことが中心になっています。 別にややこしいことではないので、箇条書きしてみますね。 1.SF小説作家としてすでに一家を成した作家が新しい分野に挑むとき、その作家がすでにSF小説の大家だという情報は、作品理解に有用なのだろうか。 2.その作家の近い親戚筋(やはり尊属関係ですかね)に、文豪がいたとき、その情報は、作品理解に有用なのだろうか。 と、こんな風に並べてみると、もちろんこれは星新一という作家だけの話ではありませんよね。ひょっとしたらあまり意味のないこだわりだったのかなという気もします。 分野を跨いであれこれ書く作家もいるでしょうし、親や祖父母が有名作家だという方も、かなりいっぱいいらっしゃいそうですものね。 1については、むしろ作品の切り口について、なるほどSF小説的にはこんな風に切り込んでゆくのかと考えた方がいいし、2についても、私は本書の少なくない短編に作者の祖母の兄の森鴎外の影を見るように思うのですが、それは親戚筋だからじゃない影響関係とも十分考えられますね。 ふと思い出したのですが、作家の室生犀星は、身近な人物をモデルにして小説を書くといろいろと差し障りがあるとき、「ある大納言がいた」と書き出せばいいと言ったそうです。 そう考えると、本短編集が時代小説になっている理由について、筆者自身が作中にちらちらと書いています。例えばこんな風に。 「わからんな。ずるずるとこうなってしまった。われわれ人間、むかしから戦乱つづきで、それには慣れていた。だが、泰平というやつには、どう処していいのかだれも知らない。そんなとこに原因があったような気もするがね」(「元禄お犬さわぎ」) 幕府からとくに警戒されてはいないとの報告。それでいいのだ。なにしろ、注目されるのはよくない。警戒されるのがよくないのはもちろんだが、変に信頼されるのも不安なものだ。信頼されると、あとでやっかいなことを申しつけられかねないからだ。なるべく目立たないようにするのが上策。名君とはその術を心得ている者のこと。わたしもそうといえそうだな。(「殿さまの日」) 宗伯は自分の実力を持てあましながら、日をすごした。いや、こういうのを実力とはいえない。ひずみをうまく利用できただけのことなのだ。(「藩医三代記」) ここには、まず、筆者が時代小説を書いた動機が描かれているかもしれません。そしてさらに、作品のアイデアの原型についての自作解説が描かれているとも思えそうです。 なるほど改めて読みますと、これはいかにもSF的発想な気がしますね。 まず一つの大きな原則(「仮定」でもいいですが)があって、それに徹底的に則って社会と人間の行動を展開していくと思いがけない不思議な世界が広がっていく、そして、それがそのころの現実社会であったという解釈(これが時代小説設定がふさわしいと思える部分)は、トータルとしてとてもSF的ではないですか。 私が上記に書いた森鴎外の影というのも、鴎外には仇討ちを扱った作品、切腹を扱った作品、犯罪人の島送りを扱った作品等々、本短編にもよく似た設定がありますが、ひょっとしたら作者は、わざと鴎外作品と同設定を取りながら、鴎外が捨てた部分(なぜそれを鴎外が捨てたのかは興味深くも、今はペンディングで)を中心に広げていったのではないか、と思わせてくれそうです。 そしてもちろんそれは、筆者の優れたオリジナリティであります。 という風に考えていくと、上記に私が書いた二つの疑問が、解決するのではなく、その形のままで作品の優れた部分として理解できそうな気がします。 ただ、冒頭の私の個人的な最初の疑問、なぜ私はこの筆者の作品をその後読まなくなったのだろうについては、やはり気にはなり、そして、少し考えてみました。 私が思いついたのは、上記に少し触れた「一つの大きな原則があってそれに則って社会と人間の行動を展開していく」という作品の構造です。 私はこの理解は、各作品の大きな捉え方として間違ってはいないと思うのですが、ただ、文学作品として、そんな物語ばかりを読み続けるのは少し物足りないと、私はおそらく感じたのではないかと思います。 もう少し、大原則から逸脱する部分があるのではないか、いや逸脱する部分を描くことこそが文学ではないかと、まぁ、思うわけですね。 そう思って、ふっと本文のこんな箇所を思い出しました。 殿さまが一日の終わりに自分を産んでくれた生母に会います。しかしその母は、父の側室だった女で、母と呼ぶことができません。「わたしをうんだ女であっても、正式な家族ではない」とある、その後の部分。 そう考えながら、殿さまは前に平伏している女の髪を見る。赤っぽい花のかんざしがさしてある。このことかな。三歳で江戸に移る前のわたしの記憶となると、赤っぽい花のことがかすかにあるだけだ。郷愁のもとはこれかもしれないし、そうでないかもしれない。そのかんざしはずっと前からしておるのか、と聞けば答えがえられるのだろうが、それはやめる。そうだとしても、どうということもないのだ。(「殿さまの日」) この作品のテーマは、いわば最後の「どうということもないのだ」にありますので、この殿さまの感情はこれ以上展開していかないのですが、筆者の小説の、少なくとも私がかつて読んだ作品の多くに、こういった感情は同様に描かれません。(たぶん) ひょっとしたら、少しずつ物足りなくなっていったのは、こんな作品の世界観だったのかもしれないなと、今の私は思うのでありました。
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Last updated
2022.04.30 10:13:29
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