|
全て
| カテゴリ未分類
| 明治期・反自然漱石
| 大正期・白樺派
| 明治期・写実主義
| 昭和期・歴史小説
| 平成期・平成期作家
| 昭和期・後半男性
| 昭和期・一次戦後派
| 昭和期・三十年男性
| 昭和期・プロ文学
| 大正期・私小説
| 明治期・耽美主義
| 明治期・明治末期
| 昭和期・内向の世代
| 昭和期・昭和十年代
| 明治期・浪漫主義
| 昭和期・第三の新人
| 大正期・大正期全般
| 昭和期・新感覚派
| 昭和~・評論家
| 昭和期・新戯作派
| 昭和期・二次戦後派
| 昭和期・三十年女性
| 昭和期・後半女性
| 昭和期・中間小説
| 昭和期・新興芸術派
| 昭和期・新心理主義
| 明治期・自然主義
| 昭和期・転向文学
| 昭和期・他の芸術派
| 明治~・詩歌俳人
| 明治期・反自然鴎外
| 明治~・劇作家
| 大正期・新現実主義
| 明治期・開化過渡期
| 令和期・令和期作家
カテゴリ:昭和期・三十年男性
『台風の眼』日野啓三(新潮文庫) ある時期、ちょっとまとめてクラシック音楽の評論というかエッセイというか、そんな本を続けて読みました。で、気づいたことがあったんですね。 そんな話をかつて私は別の拙ブログに書いていまして、その時はぐちゃぐちゃと「グチって」いたと思いますが、一応の結論としては、鑑賞初心者にとってのみ、そんな本は有益である、と。 という、まー、考えたらかなり当たり前の結論だったのですが(どんな曲から聞き始めればいいのか迷っている初心者に役立つと言うことですね)、さてなぜそんな話から始めたかと言いますと、冒頭の小説の筆者・日野啓三の作品を、わたくしこの度初めて読んだのであります。 で、読みながら、ひとりの作家の作品のファーストチョイスとして、本作はふさわしかったのだろうかという疑問が、かなり浮かんできました。そして、クラシック音楽初心者向け鑑賞読本の、「日野啓三版」みたいなのがあればいいのになーと、感じた次第であります。 しかしそんな本は手元になかったので(日野啓三についての評論が本当にあるのかないのか、私は寡聞にして存じ上げないのですが)、知人に尋ねてみました。私の読書の「メンター」のような方です。 そんな人がいると便利ですね。打てば響くように答えてくれました。 「社会派の作家だ」と。 で、私は理解したんですね。 あー、やっぱりミスチョイスだったんだな、と。 なるほど、本書には「社会派」っぽいところがあまりありません。韓国での話とベトナムでの話の部分だけ(全体の割合で言えば二割程度でしょうか)です。 でも本当は、私がミスチョイスじゃないかと疑ったのは、本書が小説的にあまり面白くなかったからなんですね。 社会派作家の、あまり社会派的じゃない小説ゆえの誤選択ではなくて、この作家は、本当に一貫してこんなに小説的に面白くない作品を書く小説家なのか、という戸惑いでありました。 しかし、読み終えてちょっとあれこれ引っかかった部分を考えていたら、一応私なりの本書の感想の方向がまとまりました。なるほどそういうことだったのかと。 さて本書は、癌手術を間近に控えた作家が、自らの過去を遡って書くという形を取っています。要するに「自伝的」というやつですね。 ただ、筆者が強くこだわっているのは、「記憶」で書くのではなく「想起」で書くということで、「想起」と「記憶」のどこが違うかについては、筆者一流の説明があります。 まずそれが我が人生にとってとても重要な経験であること、そして、その部分の描き方について、話を想像で広げないということであります。 では、そのようにして過去を振り返るとどんな記述になるのでしょう。 それは、あまり前後にストーリーのつながりを持たない「断片」になります。 事実、ここのところはもっと小説的に広げていけば面白くなりそうなのになーと感じるエピソードがぶつ切れで、なによりそんな個所に登場人物間の言葉のやりとりとか、そんないわゆる「小説的に面白い」部分が見事に書かれていません。 (例えば、主人公と「原家」の姉妹との関係なんか、普通の小説なら多分大いに盛り上がる描写ができるところなのに、なんと言いますか、そんなことを私は書く気はないとでもいうような、無愛想な尻切れトンボの形です。) そんなお話です。 では、筆者はそんな風に小説から小説的部分を剥ぎ取るようにして、残った「想起」に何を描かせようとしたのでしょうか。 それは実は、作品のはじめに近い部分にこう書かれています。 想起できることが現実だ、とさえ考えたい。それは記憶に対応する過去ではない。常に現在だ。現在の、現実の実在である。このふしぎな実在感だけが、たとえば死の恐怖に対応できる。 種明かし的に書かれているのは、今、死を見つめつつある態度と言うことでしょう。 一方に「死」を見据え、その片方に対応させることが可能なものとして、筆者は「想起」を選びました。 つまり筆者は、「想起」にそんな力、それはそのまま「文学的力」と言い換えることができるような力を、本作品に込めて書いたということでありましょうか。 なるほどそれならば、「小説的な面白さ」を作品から切り捨てても、それはやむなしの選択であるのかもしれません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.09.25 14:10:37
コメント(0) | コメントを書く
[昭和期・三十年男性] カテゴリの最新記事
|
|