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2022.10.10
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カテゴリ:昭和期・中間小説
  『ミチクサ先生・上下』伊集院静(講談社)

 図書館で借りたのですが、図書館ではずいぶんの数の予約が入っていました。かなり待ちました。
 そのとき知ったのですが、予約の数なんですが、えらいもので、上巻の方がかなり多いんですね。いえ、当たり前ですかね。別にえらいものでもないのかな。
 上巻だけ借りて、まず読んでからその後下巻を借りるのですかね。
 まー、とても理性的な図書館利用法ではありますね。あるいは、ちょっと遠慮がちのお方がけっこういらっしゃる、と。よき公民なのでしょうね。
 私なんか厚かましい人間なもので、上下巻一気に予約しますがー。(今回もしました。)

 さて閑話休題、この筆者の小説はわたくし、以前『ノボさん』という、本小説でも極めて重要な登場人物である正岡子規を書いたものを読みました。今となってはほとんど内容は忘れていますが、途中あたりからかなり面白く読みすすめた記憶があります。
 途中あたりからというのは、『ノボさん』に漱石が登場してきてからですね。
 明るい子規と暗い漱石というコントラストが、とっても鮮やかで面白かったんですねー。

 この度の小説は、その二人の立場が逆になったお話ですが、今回は途中から子規が出てきてもどうこうという感じは受けませんでした。
 というより、ずーっと、一貫して、なんと言いますかー、ちょっと「タルイ」感じで最後まで行っちゃったんですね。

 なにせ『ノボさん』よりかなり長い上下巻のお話ですから。
 また、この度の小説は日経新聞朝刊連載と言うことで(『ノボさん』の初出誌は失念しましたが)、なるほどこんなものなのかな、と、ちょっとまたバイアスの掛かったことを考えました。
 というのは、まず文章がかなり「ユルい」こと。次に同じエピソードが何度も出てくることなど、よーするに私の偏見で、普段あまり日本文学に興味のない方々を対象読者に書かれた小説かなー、と考えたわけです。すみません。

 と、まあ、そんな感じで少しだらだらと読んでいたのですが、さらに読み進めて、……んーー、そういうことってどうなんかなー、と感じたことがありました。
 それは一言でまとめて言えば、史実に基づくつもりはない小説、とでもいうことですかね。

 あれこれありそうですが典型的なのは、「鏡子悪妻説」についてのエピソードが、ほぼ書かれていないことです。
 基本、二人ずっとラブラブ。(そういえば確か『吾輩は猫である』に、この夫婦はひょっとしたらラブラブじゃないのかと思わせるところがあったような気がしますが。)

 もっとも、「鏡子悪妻説」についても、それは正しい理解ではないという説があるようです。(漱石死後近くの、初期の漱石研究の時代に、古株の漱石の弟子たちが書いたそれこそ「偏見」にあふれた説である等。)
 しかし、漱石の子供たちの回想記などにも、やはり少なからず描かれている漱石家の「家庭内のトラブル」について、本小説にほぼ触れられていないというのは、実のところかなり展開に無理を生んでいるように思います。

 では、そんな無理を犯してまで、その代わりに筆者が書きたかったことは何なのか。
 これはなかなか難しい問いですが、私が興味深かったのは、作品の中盤あたりで(本書は、一応漱石の誕生から亡くなるまでを描いていますので、中盤あたりというのは、漱石がいやいや教師をしていた頃や、ロンドンでうんざりする日々を送っていた頃となります)、ちらちらと何度か出てきたとまどう漱石の姿・たたずむ漱石の姿であります。

 例えば、漱石の初恋の相手という説のある「眼科医患者の女性」について、後年「あの人は今、どこで何をしているのだろう」と呟く場面や、生まれたばかりの筆子を抱いて「人は生きている限り、何かを探し求めるものだ」と考える場面や、また友人への手紙の中で、「しかし私はいったい何をすればいいのかね」と綴る場面に現れているように思います。

 それは、漱石の生涯を俯瞰すれば、この時期とは、小説を書く直前の尋常ではない小説の才能が大噴火する間際の、エネルギーの固まりが出口を求めて膨れあがっているような時ですから、そこから出るオーラのようなものは、その持ち主である漱石をも巻き込んで、得体知れずも魅力的なものであるということでしようか。

 しかし、描かれたその頃の漱石の心のありようには、読んでいてとても「青春的」で期待感が高く、懐かしいようなすがすがしい「文学性」といってもいいようなもの発露が感じられました。

 それに比べると、終盤近くの職業小説家になった後の漱石の姿には、作者自身が同病相哀れむと感じているようなニュアンスがしみ出していて、それはもちろん悪化していく漱石の体調を描くゆえもありましょうが、そこに至るまでのさわやかさははるか後景に控えてしまった感がありました。

 さて、そんな読書感を私は持ちました。
 ただ、やはり読後もしばらく気になったのは、上記にも触れました、「史実に基づくつもりはない小説」という部分です。

 本来小説とは何を書いてもいいものであります。
 それは一応わたくしも心得ております。
 ただ、歴史上の人物をモデルとして特定しつつ、でも歴史的事実に基づかず何を書いてもいいというのは、はて、どうなのでしょうか。(もちろんここには、事実とは何かという問題もありますわね。)

 実は今私は、少々ピントはずれかもしれないことを頭に浮かべているのですが、それは例えば水戸光圀であります。(大岡越前でもいいですが。)

 どちらも実存なさった方であり、なおかつ、光圀なら全国漫遊ですか。(光圀の全国漫遊は、全く史実にはないそうです。)

 ……うーん、漱石と越前・光圀は、もはや小説においては同じ扱いであって、……うーん、いいのかなー。……よくわかりませぬー。


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Last updated  2022.10.10 11:48:37
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