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カテゴリ:昭和期・三十年男性
『田紳有楽』藤枝静男(講談社) 少し前、たまに足を向ける神戸の街で、たまたま古本屋があったもので(神戸の街も結構古本屋さんのたくさんある街です)、ぶらりと入ろうとしたら、入口の横、道に面して設置してある本棚に、上記の本がありました。 箱入りできれいな本です。「谷崎潤一郎賞受賞」と書いてある帯も箱についていて、中を開くと、ページもぱりぱりとした感じで、新刊のようにきれいです。 昭和五十一年第一刷発行と奥付にあって、値段は1200円。 それが、この棚の書籍はすべて100円。 実はこの棚で、この本以外にも何冊か目についた、あるいは手に取った本があったのですが、それはこの度は省略して、とにかく本書が、この本が、100円(!)。 「田紳有楽」は以前読んで、訳が分からないながら、これは名作に違いないと、拙ブログでも報告しました。 その「田紳有楽」が100円とは、わたくし、あまりにかわいそうな気がして、つい、買って帰りました。 で、読みました。 と、ここで、話題は大きく飛びます。すみません。 以前より何度か、本ブログで、小説とはいったい何なのだろうかという、少々原理めいたことを考える時に、何度か取り上げたのが、三島由紀夫の『小説とは何か』の中のフレーズであります。 何度か書いたのと、そもそも有名なフレーズではあるのですが、そして、今回の読書中もずっと私の頭の中にあったのですが、ちょっと正確に、どんな前後の文脈の中で書かれたものであったか気になって、探してみました。 すぐに見つかったのですが、本書は連載エッセイ(三島氏の最晩年の連載エッセイ)の形で発表されていたのですが、その最終回に書かれてあります。 ということは、三島氏の死後発表(劇的というかなんというか、今だ難解な部分を持つ三島氏の自死の後)であります。本書の箱の帯にも「天賦の才能を恣にして逝った三島由紀夫の文学的遺書!」とあります。 その最終回の冒頭がこのように始まっています。 小説とは何かと、といふ問題について、無限に語りつづけることは空しい。 そのあと、その空しさの説明が少し続いて、そして、ミナミ象アザラシこそ理想的な小説だという「発見」に続いていくわけです。 筆者は両者の類似点をさらに説明していきますが、ちょっとよくわからないところ(私がよくわからないんですね。すみません。)があるのですが、こんな風にまとめてあります。 彫刻が生の理想形の追及であつたとしたら、小説は生の現存在性の追及であつた。小説におけるヒーローは、劇におけるヒーローとちがって、糞をひり、大飯を喰ひ、死の尊厳をさへ敢て犯すのだつた。 なるほど、「生の現存在性」というのが「ミナミ象アザラシ」なわけですね(たぶん)。 と、一応、納得するようなしないようなことを思って、さて、やっと、冒頭の本書「田紳有楽」であります。 本書の奇怪さ(普通の小説じゃない有り様)については、実はわたくし、一度拙ブログで報告させていただいています。 設定がまず奇怪であれば、その展開も圧倒的に奇怪であり、そして、終末に至ってほぼ難解(描かれていることが難解というのではなく)、読者を振り切って唖然として終わっていく、そんな小説です。 しかし私も、今まで少しはいろんな日本の小説を読んできまして、いわゆる筋の整合性だけ追いかけても仕方がないという話にも、いくつか出会っています。 そんな時、どのようにその作品を「理解」(本当はすでにこの言葉にあまり意味がないのですが)するかの基準は、ごくごく私的なものでありますが、私は「好感」に置きます。 本当は「上品」と言ってもいいのですが、「上品」の属性について、かなり私的な理解を行っているようなので、「上品」という表現は少し控えます。 そんな一言の読書報告であります。 しかし、それだけではあまりに報告が無内容ではないかと、我ながら少し困っていますと、読み終えてから、箱の帯の裏側の部分に、大江健三郎がこのように書いているのを見つけました。さすがに、上手に説明してあります。一部抜粋。 私小説の本流をなす作家である藤枝氏が、その「私」を自由・多様に拡大する方向に進まれたのは自然である。そうなれば、「他者」のきわみである物質に、その「私」を観照的に移入することも、やはり自然な展開のひとつであろう。 ……うーん、見事な着眼と説明ですね。 「物質に、その『私』を観照的に移入する」と、一人称が「グイ呑み」や「抹茶茶碗」や、あまつさえ「弥勒菩薩」にまでなってしまうわけです。(「私小説の本流」ですよ!) ……うーん、しかし訳が分からなくても、読み終えて、広がりのある心地よさと達成感(と、少しのドキドキ)が残る、そんな小説は、やはり「傑作」でありましょうねえ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.09.10 08:09:33
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