お手上げの意識の流れ
『街と村・生物祭・イカルス失墜』伊藤整(講談社文芸文庫) さて、伊藤整であります。 「さて」っちゅうのは何のための書き出しの言葉かというと、……えー、なんでしょうねぇ。 ……やはり、ビビっている、んでしょうかねぇ。 何にビビっているかと言えば、えー、新心理主義、かな? この拙ブログの私の立てたカテゴリの一つに「新心理主義」ってのがあるのですが、恥ずかしながら私は、このカテゴリの意味を知らずに立てていたということがこの度わかりました。 じゃ、どこからひらってきた言葉なのかというと、私自身最近あまり書きませんが、高校の国語科の副読本である「日本文学史」の中に使われていた言葉であります。 堀辰雄、伊藤整という作家たちの流派の説明として使われていたんですね。 いえ、わたくしとしても、今まで伊藤整の本を読んだことがないわけではありません。 拙ブログでも二つ報告しています。(小説一つ、評論一つですね。) で、この度この自分の二つの報告文を読みかえしてみたのですが、評論についてはフェイヴァレットと書いてありますが、小説については、かなり困っていますね。 なるほど今回のビビりも、きっとこの困惑の一環であります。 本書の読後、困惑した私は、パラパラとページを何とはなく繰りながら、「新心理主義」という言葉をふと思い出し、そして「新心理主義」って、何なの? ということに気付いたのでありました。(いかに意味も知らずに使っている言葉が多いか、という「好例」でありますなー。) で、ちょっと調べてみました。 すると、わたくしのビビるマルセル・プルースト、ジェイムス・ジョイス、ヴァージニア・ウルフなどというビックネームが出てきたんですねー。 そして、「新心理主義」の説明としてこんな風に書いてあります。 その論理上の主張は、新感覚派風の印象描写を止揚し、内面の世界を外面と同じような明瞭な世界として提出することによって、いっそう現実に肉薄しようとする心理的リアリズムの確立であり、具体的には「意識の流れ」「内的告白」を創作技法として取り入れることを説いたもので、(略)(『文芸用語の基礎知識』) 出てきましたねー。「意識の流れ」。 わたくし、この方面、かなり弱いんですね。いえ、全く弱いです。 でも、わからんなりになるほどとそう思って少し読み返しました。 すると、「浪の響のなかで」という短い作品、これは私にも作者の自伝的要素を持った作品だなとはわかっていたのですが、その中にこんな場面があります。 主人公の「俺」が、「この寒い村を出て都会に行ってから知り合いになった連中」として「文学者」との付き合いを描いた場面です。 ある時俺が人より先に西洋流のダンスを習ったもので、将来人間はみなこのダンスのように優美に歩くようになるだろう、今の皆の歩きかたは下駄ばきの屁放り腰だと言った。 俺は別に本心からそう思った訳でもないのだ。ただ俺の存在を認めさせたかったのだ。それにつけてはダンスは優美なものだったし、皆が屁放り腰で歩いているのは事実だったからだ。皆はぎょっとした顔つきで俺を睨みつけた。 どうですか。 これは諧謔と寓意と象徴でありましょう。 ちょうど、伊藤整が、プルーストなんかを日本の文壇に紹介していた場面ですよね。 本短編集には6つのお話が入っていますが、そのほとんどが、こんな感じの散文詩のような象徴的観念的なお話になっています。物語要素が、ないではないですが、どこか隅っこの方に追いやられている感じです。 うーん、これは私にはかなりつらかったですね。 (「意識の流れ」って、みんなこんな風なんですか? そんなことないですよね。堀辰雄の作品の印象とは、また大分違いますものね。) 結局は、まー、そんな困った読書体験でありました。 少し、残念であります。 ただ、本書には「序」という見開き2ページの文章が始めにあって、ここにとてもチャーミングなことが書いてありました。最後に、その一部を引用してみますね。 物語というのは、芸術のうちのままっ子で、一ばん耕しにくい畑を親の人生からもらった。たぶんしかし、物語のもらったのは、人生の幹の部分や、根の部分であるらしい。物語には、花や香りのような、それじたいの楽しさは少ない。だが意志だけはもっともはげしくそこにある。一方は地面に入っていって、汚物のなかから滋養をさがそうとする下へむく意志、一方は上へのぼっていって、できるだけ多くの光をあび、空気をあびようとする意志。それが物語の貪欲な根性として、いつもものほしげに何かをさがしている。 自分の小説集の序文にこんなことを書くのって、たぶんかなり文学的に苦闘なさっていたのだなあと、わたくしはひとり思うのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記