カテゴリ:京都
「本能寺の変」の焼け瓦発見
旧寺跡で 堀や石垣も
京都市中京区西洞院通六角下ルの旧本能寺跡の発掘調査で、織田信長が明智光秀に攻められ自害した「本能寺の変」と同時期とみられる堀跡や大量の焼け瓦が6 日までに見つかった。旧本能寺の明確な遺構や遺物が見つかったのは初めて。堀跡からは、護岸の石垣も見つかり、寺が城塞(じょうさい)のように堅固に守ら れていた可能性が出てきた。 マンション建設に伴い、関西文化財調査会(上京区・吉川義彦代表)が7月下旬から約130平方メートルを調査した。 堀跡はL字形の部分が見つかった。幅6メートル、深さ1メートルで護岸が底に向けて斜めに落ち込んだ形。石垣は長さ約2メートルほどが残り、60-80センチ程度の川原石7個を平らな面をそろえて三段に積み、すき間に小石を丁寧に詰めていた。 瓦は、底にたまったヘドロの上に大量に埋まっており、境内を整地するため一斉に廃棄したとみられる。瓦には焼けてレンガ色になっているものもあったが、全く焼けていないものもあった。 瓦の中に、「能」の異体字で「ヒ(火)を避ける」意味で、現在も本能寺で使われる「☆」の字を記した丸瓦があり、本能寺の瓦であることが裏付けられた。 堀跡からは16世紀中ごろの土器が見つかったが、詳細な年代分析が終わっておらず、堀ができた時期は不明。上層に17世紀前半の整地層があり、焼け瓦は本能寺の変の火災に伴う可能性が極めて高いという。 1545(天文14)年の古文書に、六角通と蛸薬師通、油小路通と西洞院通の間の土地を本能寺が購入したことが記され、調査地が旧本能寺の境内だったことは確実だ。 吉川代表(59)は「これまでほとんど分かっていなかった本能寺の実像を知る貴重な発見。焼けた瓦は全体の半分程度。寺は半焼程度だった可能性が高い」と話している。 【注】☆は「能」の文字の右側の部分が「去」という文字です。
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Last updated
August 8, 2007 05:24:41 AM
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