カテゴリ:平和
田中優子 法政大学教授 近代に入るまで、「国家」という概念がなかった。 そして国民なんて考え方は、それまでの日本にはなかったわけです。 したがって、日本人という存在もなかったのです。 江戸時代だって国という言葉はあったのですが、それはそれぞれの藩を指していただけです。 だから、統一的な憲法のようなものはありませんでした。 武士には武家諸法度が一応の規範ですが、これは全体ではなく、あくまで武家に対するものです。 しかし武士なんていうのは、全人口のほんの二割ぐらいのものです。 あとは、商人は商人道徳という不文律、個々の家では家訓というもの、 農民は村の掟、まあそんな具合でなんとなく「そういう風に決めている」だけのことで、 全体として国が何か基本的な姿勢を決めるなどということはなかったわけです。 戦前回帰的な流れが強まっていることは確かでしょうが、 その「戦前」というのがどこからどこまでかが、よく分かりません。 まず、軍隊の問題ですよね。 防衛庁の省昇格から始まって、どうも戦前回帰というより、「戦後放棄」といった気がします。 戦後、新しく一から努力を始めよう、という決意表明が今の日本国憲法だったわけでしょう? それを捨てちゃおうってことですよね、最近の動きは。 捨てることより守ることのほうが大変なんですよ、実は。 だから、大変だからやめちゃおう、ってことなのです。 ベストセラーになっている 『憲法九条を世界遺産に』(太田光・中沢新一著、集英社新書 /2006年) という本を私が好きなのは、その点なのです。 つまり、人間には本当は到達できないかもしれないことが憲法九条には書いてある、と指摘した。 これは「日本人が」ではないんです。 もしかしたら「人間には」無理かもしれないことが書いてあるんです。 そこが憲法九条の凄いところだ、とはっきり語った。 護憲運動として具体的にどうするか、という以前の問題です。 もともと人間が堕落しないために、いろんなシステムが作られていて、 修道院もそうだったし、日本では寺院やお坊さん、神社もそういうところでした。 恐れ、畏怖ですね。そういうものが人間の堕落を押しとどめてきたという気がするんですね。 実は一揆の掟のなかにも、そういう装置があった。 人間を超えちゃうもの。私は、憲法九条というのは、それにすごく近いなと思うんです。 あの本の中では「たまたま出来ちゃった」というニュアンスで語られていますが、 その通りだと思いますね。 考えたらできないですよ。果たして実現できるだろうか、なんて考えながらやっていたら、 あの一文は出てこなかったんじゃないですか。 現実化することが非常に難しいことが、憲法九条で明文化されている。 様々な状況の中で「めったにないこと」が(憲法九条という)出来事として起こってしまった。 これは、人類にとっての好機、それこそ「めったにない」チャンスだったわけです。 日本の戦後というのは、この九条を守るためにはどうしたらいいのだろうか、 というところから出発したのだと、私は考えています。 そのためには、きちんとした外交をやらなければいけなかった。 ところが、その外交努力が足りなかった。 外務省に任せておけばいい、ということではなく、 それこそ国を挙げて取り組まなければならなかったのに、それをやらなかった、 もしくは、能力がなくてやれなかったのです。 そして今、その「戦後」を、放棄してしまおうとしているのではないでしょうか。 法律に書かれる「伝統文化」や「愛国」は、まやかしである。 (2006.12.27 マガジン9) http://t.co/Bq9PC7oRKx (日本が戦後)きちんとした外交をやれなかったその背景には、 やはり日米安保体制があったと思います。 本当に、ここに一人で立たなければいけない状況になったら。 アメリカべったりで自立を叫ぶ、矛盾だらけの改憲論 (2007.1.10 マガジン9) ………………………………………… The Penelopesのwatanabe さんという方 ( @penewax )がTwitterで紹介してくださっている言葉をつなげてUPさせていただきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年09月21日 22時13分05秒
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