カテゴリ:歴史・旅・散策
少し前の日記「太閤遺髪塚と伊賀家のお墓」に頂戴したコメントで…。
不動院にあった『伊賀家』とのみ書かれたお墓が、『伊賀家久のお墓』そのものであるかのような、紛らわしい駄文となっていたことに青ざめまくりまして…。 その後、コメントをお寄せくださった『野楽人(のらくんど)』様より「広島県に伊賀家の墓ならほぼ「伊賀家久」の後孫であろうと思われます。」と、まこと暖かきフォローを賜り…。 有り難く安堵させていただきつつ、レスにも記載いたしましたのですが、冷静に振り返ってみましても、太閤遺髪塚の真横にあったことと、そのエリアが、おそらく不動院墓所の中でも、最高の場所でもあろうことからも…。 『一般庶民の伊賀さん』のお墓とは、到底、思えないのであります。 ここで、『備前・伊賀一族』の概略に触れておかねば…と思うのですが…。 かく申す私めも、伊賀一族には興味を抱きつつも「備前軍記」における、やや眉唾系の知識しか持ち合わせておりませず…。(恥じ入りッ) 【送料無料】新釈備前軍記新版 ↑ずっと品切れのまま…☆お求めのかたは、南米大河書店さん等で…。(小声☆) そう…。ここは、いい加減な概略を私めが書いてしまいますより、『野楽人(のらくんど)』様HP 藤陽伝 伊賀氏一族と虎倉城記 へ!!! 時は戦国、乱世の吉備野に一段と輝く光彩でありながら忽然と歴史の表舞台から消えた備前虎倉の伊賀氏一族。当ブログは今まで沈黙を守ってきた備前伊賀氏直系吉川伊賀家が伝承を後に伝えんと記すものです。後孫、伊賀氏関係諸家、虎倉城関係者はもとより広く歴史ファン交流の場にしていただければ幸いです。 (↑TPのお言葉を転載させていただきました~)(平伏) 野楽人(のらくんど)様、なんと、上記『備前伊賀氏直系吉川伊賀家』のご子孫でおいでなのです!! 昨晩、ご挨拶の前に、少し閲覧させていただこうと伺った折、関ヶ原後の、伊賀一族と明石一族の関わりについての記載を拝読してしまい…。 一気に眠気が吹っ飛ぶほど、驚き、感じ入った次第であります☆ 伊賀一族そのものに関する詳細は、野楽人さまHPでご覧いただくといたしまして(丸投げ、あいすみませぬです)ここでは、マイ最敬愛の戦国武将、明石掃部様との関わりと、宇喜多との因縁を、少しだけ…。 (注:『備前軍記』からの知識ですので、眉唾概略です☆☆)(平伏ッ) 宇喜多が、毛利方から織田方に鞍替えしようと画策していた天正6年(1578年)、伊賀家当主・久隆が、宇喜多直家によって毒殺されるという事件が起きます。 伊賀久隆の妻は、宇喜多直家の妹。息子(甥?)・家久の妻は明石景親(←妻は、やはり直家・妹)の娘(掃部・姉)ということからも、宇喜多陣営において、トップクラスの重要人物だったかと思われます。 ゆえに、直家が謀殺に踏み切ったのは(『備前軍記』には怪しい理由が書かれていますが)、その後の伊賀一族の運命から、毛利との複雑な政治的事情が絡んでいたように推察されるのですが…。(←この辺り、『備前軍記』より怪しいマイ妄想推察☆) 父を殺された伊賀家久は、宇喜多領を脱出、毛利を頼って、以後、(織田方となった)父の仇・宇喜多との戦いで、先鋒となって戦います。 やがて、高松城水攻めを経て、なし崩し的に和解した秀吉が天下を取ると、その秀吉の元、上手い具合に羽柴陣営に取り込まれていた宇喜多とも、毛利は(渋々)和解することになります。 事実上・和解したことで、毛利と宇喜多は、話し合いによって国境を確定することになるのですが、その折、『境目の城』の一つを任されていた伊賀家久は、相当、反発したことと思われます。 伊賀家久のその後は、伊賀家久Wikiページにもありますように、歴史のヴェールに隠れてしまいがちになるわけでありますが…。 家久夫人となっていた姉と、明石掃部様は、おそらくずっと連絡を取り合い続け(敵味方となっていた間も)、だからこそ、関ヶ原後の『(掃部が)姉妹に会いに、山口へ行った』記述があるのでござりましょう。 と、ここまで書いたところで、野楽人様から、新たなレアご情報がコメント欄に!! うう~~。拙妄想漫画の設定が、大いにまつがってる!!という事を再認識しつつ…。 歴史の奥深さに、改めて魅了されまくっている今現在であります♪♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年12月07日 10時15分02秒
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