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カテゴリ:古本(文庫)
”賀の祝い”なる言葉があるという。
昔は40歳からはじめ、10年を節目に祝った長寿の祝いだという。 源氏物語で、光源氏は面倒でこの祝いを辞退したそうだが、 40歳の賀を”初老”といったという。 (読売新聞”編集手帳”より。) 芥川作家でもある臨済宗住職、玄侑宗久氏の新書、”禅的生活”を読んだ。 (2003年12月10日発行、ちくま新書、720円) もちろんbook offにて250円で購入したものだ。 知足、ということばがある。 足るを知る、というと、今までは 戦争時代や飢餓国のことを思えば、食事を残すのはけしからん、とかいった 文脈で僕の周りで語られてきて、 いやあ、そりゃあそうなんですけどね、 別にそのことを軽んじたり、馬鹿にしてるわけじゃありませんよ、 だけどちょっとそぐわないというか、反発を感じるというか、 なんだかそう聞いても”そうだなあ、すまないことをしたなあ、 ごめんなさい”とはなかなか素直にいえませんよ? それはあなたの考え方のある意味おしつけでしょ、 といったことを感じてきた。 いまは子供に対して逆にそんなことをいう立場になって、 いや、そういってみると確かにある一定の効果があるわけなんだが、 でもちょっとそれはなんだか心の深いところでカッチリとい説得力のある 説明として理解できていず、なんだか魚の小骨のような感じで引っかかっていた。 たとえば、食事の時は感謝せい、といわれたら、そりゃ感謝はしますよ、だけど 感謝のタイミングとやりかたは、自分で選びたいわな、みたいな思いばかり出てきて、 なんだか形だけやったふり、という感じだったことも思い出す。 しかし、知足にしても、感謝にしても、 自分が地に足をつけて生きる、精神安定のためのテクニックなのかもしれない、 (それは本書では”方便”といういいかたで説明されているが)と最近思うように なってきた。 足るを知る、というのは、知らないと贅沢だ、とか、今の人間はイカンとか、 そういう部分ではなくて、 知っていたら気持ちが楽で、今の自分や今時分のやっていることを 自ら肯定的に見れる、精神安定のためのある意味薬的なテクニックではないか、と 考えている。 自分の今やっている仕事。 望んでやっているのか、楽しいのか、ほかに自分の天職がもっとあるのではないか、とか、 今の時代、生きるための現実との折り合いはつけなきゃね、という思いを いろいろ考えてきた。 でも、どれも自分の”今”を積極的に100%認める考え方ではない。 それが自分でもわかっているから、 なんだか今の自分がいいのかな、という思いが、心のそこに0.1mg位あるわけで、 それがいつのまにか、大きくなって、元気がなくなっていたりする自分がいる。 そこで、方便としての知足があるんではないか。 今こうして、パソコンを打っている私。 これがしたくて今までやってきたんだ、 これをやるための私なんだ。 ・・・ちょっと大げさで、わざとらしいのはわかっているんですが、 こう考えてみると、すこし今の自分が肯定できる気がしてくるのである。 これが、テクニックとしての方便だと理解した。 禅者は長生きの人が多いという。 今、この年になりたかったんだ、ずっとそう思ってきたんだ最高だなあ!!!! そう思って生きている人間が長生きしないはずがない、と玄侑師は言う。 ・・・・そのとおり、だよなあ。。 明日40歳を迎えて、なんだか初老なんてことばを見つけて、 もうあかんわ、 なんていう気持ち大だったんだが、 そんな気持ちになっても、それとも能天気に いやあ、この年になりたかったのよ!! なんていってても、 年はおんなじようにとるよね。 なら、後者がいいじゃん。 昔と比べて、筋力は落ちたかもしれないけど、体がシンプルに 整理されたような気もしている。 腰は痛いが、だったらよけいに腹筋・背筋をきっちり きたえて、もっと年をとったときの貯金にすればいい。 自分の体は自分でつくりあげなくては。 体と、そして考え方、生き方、みたいなところも。 ・・・・・そんなことを考えている、3月5日39歳最後の日である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.03.05 11:56:25
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