What I think about.
朝、5時半ころか、近くの緑地公園へ車で行った。わかったのは、このころは犬散歩と健康Walkerの方々がほとんどだということ。でも、まあ、そんな感じはしていた。昨日の運動会(ちょっと時期が?でしたが)は、雨が降ったりやんだりだった。大体朝は天気がいいし、朝日を浴びると体内時計的には、調子も出る。前に次男とその公園の木の下で、虫取り(幼虫堀り?)をしたときのこと。なんでこういった森というか、公園というか、木の密集しているところは、あまり雑草が生えないのかな、と思った。見ていると、落ち葉や実など、木から落ちるものが堆積して、地表で薄い層を作り、それで雑草等が生えにくいのではないか、という風に感じた。専門的にはどうなのかわからないが、とにかく1Fのこの社宅の庭というか、ネズミの額的に少ない地表部分、ここの雑草の繁茂のスピードと密度はものすごい。東側部分は、オシロイバナ(開花真近!)で地表を覆うべく手入れしているが、西側は、近くに水道がないこともあり、放置状態だ。で、ここの部分に、森の地表を移植すれば、雑草繁茂を押さえられるのではないのか、と考えた。で、車にてそれを実行に移した次第である。6時前の公園に向かうので、長袖のBIG MACのデニムワークシャツと、コンバースの化繊長ズボンをはいた。せっかくなので、公園の噴水のそばのベンチでしばし脱力。鳥が鳴いていた。鳩がすぐそばまで寄ってくる。カラスがギャーギャーと騒ぐ。そして木の間から朝日の光が。・・・・そんなとき、いろいろと考えますよね。でも、基本的になにもない朝(7時からはゾロリのビデオ採りあるが(苦笑))、このFREE感はとにかく貴重だ。たとえば、定年後、350万円くらいで都心部のワンルームを買って、自宅から通勤し、そこでいろいろと書物をしたり、絵を書いたり、で、そこには思い切り好きな本がおいてあり、・・そんなところが自分の夢かな、なんて思ったりする。図書館の、できれば公園内に位置する図書館の近くに住んで、そこに通いつめる、というのもかなりいいのだが、しかしいろいろと気を遣う部分もあるだろう。それから今身につけているもの、考えてみたら日本製はひとつもないな、なんてことも思う。靴下、パンツはユニクロ(=中国製)、靴はREEBOK(中国製)、ズボン(もちろん中国製)、T-シャツ(無印良品で奮発した、Made in USA),シャツは、20年前に買ったBIG MAC(1500円くらいだったかな)、時計はスイス。見事に日本製がない。で、それがどうなのか、ということだが、もし仮に30年前に同じように公園で脱力しているオヤジがいたとして、たぶん体全体MADE IN JAPANやったやろなあ、・・・という感慨である。やはり変化はある。確実に。まあ、ほんとどうでもいいようなことばっかですが。最近は、人生とは、生きがいとは、なんてこともちょっと考える。ちょっと大上段すぎたかな。なんというか、自分はどのように人生を生きたいのか、具体的には生活費を稼ぐ部分と自分の生きたい生き方の折り合いをどうつけるか、その部分に定年後は、なんてことも思うようになった。ま、オジンくさい話ですわな。でも、切実な話だし、考えとかないとあとで後悔すんで、ということを心がささやくんですな。最近特に。で、似合わないなと思いつつも、経済誌なぞを読んだりする。でも昔は人に言われて、”社会人はそれくらい読め”みたいにプレッシャーを受けて、絶対聞かへんで、という感じでしたが、自ら手に取る気持ちにやっとなった、というか。そういう意味では、昔の人が20歳で決別した子供時代にやっと倍の年齢で決別しつつあるというか。日本の宗教観に対する思いも似たような気持ちの変化が自分の中である。超越者がいるのかいないのか、というより、まあこの自然やこの生や、なんやかやの前で謙虚になってみる、というのか、そんな気持ちがすこしずつ出てきたような。でもそれは人に強制はしたくはないけどね。でもそれはもしかすると昔の人間の自分の精神を平安に、HAPPYにKEEPする知恵、とうか技のような気がする。こだわりを捨ててみると、楽、というか。汎神論、とかに近いかもしれないですが、大きな木なぞをみると、それは何百年、千年近く生きているかもしれないわけであり、それが神なのか、とかいうより、素直にすごいなあ、長生きやなあ、という感じ。そう思ってその木のそばに立ってみると、素直にいい、というか、なんだかそこにいたい、というか。そんな感じがスタートかなあ。そこの部分も自分の中でのこだわりが変わってきたトコロである。あと、生きるカナシサとか、自分のよりどころ、とか、政治における使命感と人生の折り合い、とかそんなこと書きたかったが、アジレンジャ-が始まってしまう。いかねば。