カテゴリ:論考集
何を趣味とするかは、どのような家庭で育つかということや、どのような仕事をするかということよりも、個人の選択の度合いが大きいし、可変性も大きい。いつのまにか、やめてしまった趣味もあれば、老後の趣味もある。
しかし、趣味を持つこと自体を、倫理的に認めないという立場もある。キリスト教の祝日は、holiday(聖なる日)であり、家から出ずに、神に祈りを捧げる日であり、どこかに遊びに出かけるvacance(vacantと同根で、「家を空にする」という意味)という休日のあり方とは正反対だ。もちろんそれは宗教に限った話ではない。無神論的実存主義者ハイデガーは、遊興に耽る人間のあり方を「非本来的生」として否定した。 だが、すでに宗教は力を失い、実存主義は今どき流行らない。「非本来的生」でも構わないから、毎日を楽しく過ごすことを、多くの人たちは願っているのであって、そのためには「仕事」や「家族」と同様、「趣味」が必要だ。 いや、家族がいない「お一人様」で生きている場合も、日常の孤独を紛らすための「娯楽」がテレビだけというのは寂しい。それを「趣味」が埋めてくれる、ということはあるだろう。 あるいは、すでに「老後」となり、年金とほどほどの資産で暮らしている人にとっても、かつての「仕事」と同じくらい熱中できる「趣味」は必要である。 そして、「趣味」がコロコロと変わるのは、それが一時の「暇潰し」に過ぎなかったことを露呈する。そういう意味で、「趣味」の本質の中に一定の「持続性」というものがなければならない。 (この項、しばらく続きます) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.05.15 05:23:38
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