カテゴリ:論考集
パリオリンピックは昨日終わったらしい。テレビをつけたらやっていたので、多少は見たのだが、すごく見たいというのは特にはなかった。海外のオリンピックでは、最高の金メダル数だそうで、日本人は大活躍だったのだが、あまり気が乗らなかった。それよりはMLBの方を見ていたが、これも最近は録画してまで、ということもない。
自分が一番夢中になったオリンピックは、何と言っても1964の東京。小学校4年だった。学校でも授業の時間にテレビをつけていた。見たこともない競技がたくさんあり、バレーボールのようにオリンピック前後に普及した市民スポーツも数多くあった。 その後の冬季オリンピック、札幌も記憶に残っているが、それほど強烈ではない。3年前の東京は、マラソンを見に札幌に宿は取ったのだが、結局、キャンセルした。それを含めて、印象に残ったシーンは何もない。今回も同じだ。 イデオロギーの対立が激しかった時代は、逆説的に「世界は一つ」であることを実感できたのだが、政治的対立が、グローバル経済に呑み込まれてしまった現代は、オリンピックは一つのスポーツショーでしかない。ショーとして見れば、恐らく最多の種類の競技があり、それなりに珍しいのだが、どうにも夢中になれない。アマチュア精神と商業化という対立軸も、いつのまにか忘れられてしまった。 資本主義は、富の偏在を生み、日本人の中にも、パリでオリンピックを楽しむ富裕層と、オリンピックどころではない、あるいはオリンピックをテレビでみるほかやることがない貧困層、オリンピックをテレビで見るよりは、多少の経済的余裕があるので、別の夏を楽しもうとする中間層に分断されつつある。オリンピックを引き受けようとする都市は少なくなり、やろうとしても今回、誘致を諦めた札幌のように一向に機運は盛り上がらない。 要はオリンピックも、スポーツの世界での求心性を失ったのである。その中で「日の丸を背負う」とか「挫折を乗り越えて」とかいうスポーツにまつわる言説も、人を惹きつける力を失っている。そんな陳腐な言葉がダダ漏れのようになっている、中継や報道は「つまらない」。今回、自分が少しだけ興味を持ったのは、新種目「ブレイキン」で金メダルを取ったAMIが、「自分が楽しくやっていたことが、オリンピックという形になった」ことについて、若干懐疑的な感じでインタビューで語っていたシーンだった。よくは聞いていなかったが、競技者自身にとっても、実はオリンピックという場は究極の目標でも、「夢」でもなくなっているのかもしれない。むしろ、そういう古くさい世界の中に引き込まれてしまったことへの戸惑いがAMIに感じられた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.08.12 05:47:05
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