SF考から環境論
SF(サイエンス・フィクション)と江戸・歴史物では、直感的に相容れないジャンルのような気がしますが、サイエンス・フィクションをツールにした歴史物は可能な訳です。石川英輔と言う、江戸の環境やエネルギー事情のことを多く書いてらっしゃる作家がいますが、その方の大江戸神仙伝シリーズは、私の愛読シリーズの一つです。私は歴史物も好きなので、石川さんの江戸時代の庶民の生活の中の、環境事情やエネルギー事情の、詳細な(そして適切に思える)記述に触れるのが楽しみです。そういう歴史考察を踏まえての、上記のフィクションは、小説としても充分に楽しめます。ところで、石川さんの江戸物(の記述)に信頼が置けられる理由の一つは、文献が適切で正しく使われていることです。例えば、翻訳の難しい、しかも江戸時代の、外国語資料なども正しく使われていることに、感心しています。日本でも知る人ぞ知る、カール・フォン・リネエ(Calr von Linee')の弟子の一人カール=ペーテル・ツゥーンベリ(Carl Peter Thunberg)が記述したものは、(翻訳者が良かったのかも知れませんが)オリジナルの記述内容にかなり忠実(だと、夫が言ってました)で、正しく引用されている、とか。植物学者であったツゥーンベリですが、その頃既に「環境問題」の走りに興味があったみたいで、江戸のトップクラスの上水・下水施設にまで言及しています(例えば、ストックホルムはパリと同じように、人為起源の汚物・排泄物を路上に捨てたりと、上下水環境は最悪だったらしいです)。***ところで、最近は以下の本を読んでいます。スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」(小澤徳太郎著)この著者「一人」の意見だけを鵜呑みにすることは危ういことなのかも知れませんが、以前、ちょっとだけとは言えシンクタンク・コンサルタントとして、環境政策絡みの仕事をしていた身としては、凄く納得のいく議論展開の内容となっているので、読みながら「そうそう!」と頷いています。私は、スウェーデンに住んで8年。その間知っていたようで知らなかったことに、最近また一つ気づきました。名古屋に1年住んでいた頃、ゴミ(資源)分別のための袋を個人(家庭)で購入し、条例を遵守し家庭でも出来る、環境に優しい事をやってきたつもりですが、上記本の中で紹介されていた、・・・例えば、家庭で出るゴミなんて、実は少量なのです。ゴミの「出元」をちゃんと調べてみると、過剰な包装紙・包装プラスチックが大半を占めているのです。国や地方自治体はこれを「資源」として、家庭にリサイクルするよう薦め、一方、そのリサイクルのための金銭的負担を「家庭」に押し付けているのが現状です。スウェーデンでは、包装紙・プラスチックはもとより、瓶や缶、セラミック、金属などの「包装」物は、全て、製品(中身)製造者の責任とし、製品を含めた包装物製造に対して「税」を課しています。また、包装物で回収・再利用可能なものを、製造者が回収するのは義務であると法的に定められています。・・・スウェーデンにあるpant(pledge)のシステムや、街中に設置されているåtervinning(reclamation,recycling)のシステムは、市や市民団体が設けたものではなく、製造物に対する法的規制を受けている生産製造者(と、その団体が作ったリサイクル専門活動体)が設けたものだそうです。日本でも、リサイクリングとか資源・ゴミ分別と言って、頑張っているようですが、上記本の著者・小澤さんの主張するところの、「政治・行政にたずさわる者、有識者の、環境に対する本物の意識が定着しない限り、日本での、この市民レベルの活動はかえって環境に負荷となる可能性が高い」には、実は、大いに同感です。・・・環境問題を語る時に、人間の行うもっとも大きな経済という活動の中に、有限な、資源・エネルギーの流れを含めた見通しを入れ、より持続的な経済活動を目指したいのならば、環境への負荷を増やさないような資源・エネルギー政策をもっと具体的に(しかも、経済問題の大きなテーマの一つとして)議論し実施する必要がある。・・・全く、その通りだと思います。夫が、「スウェーデンの「環境法典」は、自国民ながら、素晴らしい法体系だと思う。それが、最近はEUとの”すり合わせ”で、活かされていない法律が出てきていて、本当に残念に思う」と漏らしていました。上記本でも、このスウェーデンの環境法典のことは触れられていますが、この本の著者のリサーチは夫の言葉をちゃんと裏付けしています。私は社会科学者ではないので、環境問題に関して日瑞間での定量的比較・分析は出来ませんが、本を読んでいるだけでも随分と勉強させてもらっています。***SF考から、環境論へと、思考的にかなり飛躍したので、この辺でやめておきます。最後に一言だけ:子供達のお気に入りの「となりのトトロ」の時代的背景は、50-60年代でしょうか?江戸時代と言わなくても、この頃でも十分に「環境大国・日本」と言えそうな気がします。スウェーデン人の言うところの「生態的に持続可能な社会」を、日本人も本気で考えたいのなら、いい加減「経済成長」なんて議論はやめて、高度成長期以前の日本を見つめ直してもいい頃だと思うのですが。。。