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カテゴリ:素敵な本
今日はやな気分もあったけど、雲の形がとても可愛かったり、夕陽に照らされる雲がフチだけ色づいていてとたも綺麗だったりそれだけで幸せな気分になれた。
ありがとう。 レイチェル・ルイス・カーソン 1907-1964 『センス・オブ・ワンダー』から ------------------------------------- 地球の美しさと神秘さを感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。 たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、 生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。 鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固い蕾のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘がかくされています。 自然がくりかえすリフレイン ― 夜の次に朝がきて、冬が去れば春になるという確かさ― のなかには、限りなく私たちを癒してくれる何かがあるのです。 ------------------------------------- カーソンが伝えたかったのは、すべての子どもが生まれながらに持っている「センス・オブ・ワンダー」、つまり「神秘さや不思議さに目を見はる感性」を、いつまでも失わないでほしいという願いだった。 嵐の夜の海の荒々しい興奮、夏の森の散歩で出会う岩やシダ…。生きることの喜びを思い出させてくれる。 そのために必要なことは、「わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、少なくともひとり、そばにいる」ことだという。 メーン州の海辺、森、植物などをとらえた写真も美しい。 * * * * * 彼女が一体、どんな生き様の中でこの本を書くこしになったのかを知ると、また深みも増すだろう。 人間が築いてきたシステムが、変容を迎える時、はじまりは、小さな波のように、静かに起こる。 物質文明と自然環境との危うい関係に、人々の目を向けたのは、レイチェル・カーソンという、一人の女性の静かな決意だった。 1907年、アメリカのペンシルバニア州で、農場を営む父と元教師の母の元に彼女は生まれた。 豊かな家庭ではなかったが、周りには森や野原が広がっていて彼女は、幼い頃から、自然界の神秘と美しさに魅せられた。 どちらかというと孤独な子供だった彼女は、一日の大半を森や小川のほとりで過ごした。 読書が大好きだった彼女は、作家になることを夢見た。10歳の時には、子供向け雑誌に物語を投稿し、銀賞に輝く。彼女の母は社会的な成功への願望よりも、知的な野心と自身に対する価値観を大切にするようにと教えてくれたのだった。 ペンシルヴァニア女子大に入学後も、彼女の執筆への情熱は衰えず、学生新聞の部員になった。作家になるために、英文学を専攻するつもりだった彼女だが、教養課程で学んだ生物学に魅せられてしまう。作家と科学者という二つの選択肢に迷いながら、しかし最終的に、彼女は専攻を動物学に変えた。そして、職業作家になる夢は途絶えたと信じ込んでいた。 1928年、21歳になった彼女は、動物学の修士課程をとるため、ジョンズ・ホプキンス大学に進んだ。その夏期研修中、ウッズホール海洋生物研究所で、海と運命的な出会いを果たす。 やがて、父親の死という事態のなかで、家族を養わなくてはならなくなった彼女は、連邦漁業局の公務員として就職することにした。 政府広報物に自然保護地域のレポートを書く仕事をする中で、ある時、海を題材にした放送番組の制作を命じられる。彼女は仕事に取りかかったが、できあがった原稿は、漁業局のための放送としては不向きなものだった。しかし、上司はアトランティック誌に投稿することを奨めてくれた。 アトランティック誌は、彼女の原稿を採用。この出来事が、彼女の運命を大きく変えていく。 その文章の力に目を留めた編集者クインシイ・ホウから、一通の手紙が届いたのだ。 それは、彼女に本を書く気があるかどうかを問うものだった。一旦は、作家になる道を諦めた彼女にとって、それは、科学者と作家という二つの夢が、出会う瞬間だった。 こうして1941年、34歳の時、『潮風の下に』が出版された。 役所の仕事をきちんとこなしながら、家族を養い、それでも時間をみつけて執筆する、という彼女の努力は、10年の後に報われた。『われらをめぐる海』がベストセラーになったのだ。 「海の作家」として才能が認められた彼女は、ようやく、文筆業に専念できるようになる。 メイン州のシープスコット湾を望む地の、こじんまりした平屋。彼女は、甥のロジャーと共に、大好きな場所を歩きまわる。 その幸せな体験は、『センス・オブ・ワンダー』という、瑞々しい本を生み出した。 しかし、最後に大きな転機がやってくる。 自然の美しさを学び、尊ぶ作家という豊かなポジションから、彼女は降りる決意をした。 『沈黙の春』の執筆。 この著書は、エコロジーという言葉もない時代に、農薬による環境汚染、化学物質による環境破壊の脅威をいち早く警告し告発し、世界に大きな論争を巻き起こした。 それは、これまでの価値観を根底から覆すものだった。 彼女の平穏な日々はくだけちる。 彼女の晩年は、厳しいものだった。病魔と戦いつつ、自らの起こした論争を、静かに、しかし、毅然と受け止めた。 1964年、カーソンは56歳の生涯を終えた。 静けさと勇気は、同時に存在することができる。そんな生き方を、彼女は私達に教えてくれた。 そして、遺作として彼女の友人たちによって出版されたのが『センス・オブ・ワンダー』なのである。 今や、自然破壊にとどまらず、生命の核であるDNA遺伝子を組み替えたり、遺伝子を傷付けるところまで環境問題は加速度的に深刻化しているが、彼女は孤立無援を覚悟で、身を捨てて、その危機を40年前に指摘した。 彼女の勇気ある告発は、有名ではあっても孤立無援な個人の抵抗運動だった。しかし、その後、アメリカから日本にも伝わり、やがて70年代の添加物禁止の消費者運動や、私利私欲で公害を垂れ流し放題だった企業への反公害運動の種火となってやがて燃え盛った。私の子供時代の記憶に残るのは、作家の有吉佐和子氏が朝日新聞の連載小説で『複合汚染』を著し、世に警鐘を鳴らしていたことだ。これは私の食やエコロジーの関心の原点となっている(小3から新聞を読むマセガキだった)。小説の形で、食品に残留する農薬の恐ろしさや公害についてドキュメンタリーのように綴っている。ここで指摘された添加物や農薬が今も使われている現実。私たちはそうした物を含む食品を極力、食べない選択をすべきしかないのなのだろう。 こうしてみると、カーソンはエコロジー運動の生みの親なのかもしれない。 彼女が存命なら、現代の電磁調理器の強力な電磁波や高圧電線、脳に近い携帯電話の電磁波の危険性についてどのように話すだろうか。 また、自然との係わり合いとスピリチュアルの復権についてどのように語るだろうか。そんなことに思いを馳せた。 やはり今でも、地球の美しさ、神秘、不思議さを感じる心。子どもやパートナーと再発見し、感動を分かち合うことの素晴らしさを語るのだろうか。そして、地球の回復に向けたヒーリングを捧げましょうと言うだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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