いわゆる履修不足問題に関してとても瑣末なことを二つほど考えてみる(その1)
下の文章は、下調べ、下書き等を一切せず、少し酔った頭で思い付くままに書き連ねました。中には事実誤認や言いがかりに近いこともあるかも知れません。ので、どうか眉に唾をつけてから、お読み下さい(笑)一つめ教師1人あたりが1週間に持つ授業のコマ数は、だいだい16前後。そして、教科によってコマ数の偏りが出ないように、教員の人数は調整されている。で、今回の履修不足問題。どの教科をどれに置き換えたのかは、はっきりないところが多いけれど、例えば世界史なのに現代社会を教えるというように同じ教科内で処理できるものはともかく、全く別の教科にすり替えていた場合、一つ疑問が出てくる。そう。教員1人あたりのコマ数に大きな差が出てくる。一例として、世界史を英語に置き換えたケースを考えてみたい。世界史が必須となっているが、その場合2単位(週2時間の授業)の世界史Aでも、4単位(週4時間)の世界史Bのどちらでもいいことになっている。もし、一学年7クラスの学校で表向きは世界史Aを必須とした場合、週2時間を7クラスだから、14コマ分が社会ではなく英語に移動することになる。この場合、英語の教員が7人いると仮定すると、増えたコマ数を全員で公平に負担する、つまり1人あたり週2コマ授業を増やすことで処理できるが、社会のほうとなると、全員のコマ数を平等に減らせばいいというものではない。本来世界史Aを担当するはずだった教員のコマ数から、世界史A分を削らねばならないのだ。つまり、もし2人で分けて担当するなら、本来16コマ持つところを週10か週8だけしか授業がない教員が2人できることになる。だが、これはあまりに不公平すぎて、他の教員の反対で却下されるだろう。ならば、1人で担当することにして、社会の教員を一人削る方法をとると思う。つまり、何が言いたいかというと、まずは、上に挙げたケースの場合、社会科教員1人分の枠が他の教科に行ってしまうことになる。それが教諭にしろ講師にしろ、社会を担当する人間が1人教壇に立てなくなることに違いはない。同じ社会を担当する者として、こうした欺瞞から職を得られない事態が生じてることに、強い憤りを感じている。報道などを見てると、世界史を削るケースが多いようだけれど、理科や芸術、家庭科でも削られるところもあり、同じような思いを抱く他教科の先生もいるのではないだろうか。ま、振りかえた先の科目を本来行われるべき科目の担当教員が行ってるのなら、話はちょっと違ってくるが(それはそれで問題ありだと思うけど)。それと、こんなことを続けていれば、その学校での教科ごとの教員数に矛盾が生じることになる。どんなに誤魔化そうとしても、年数を経るうちに、おかしな点がどこかに現れるに違いない。で、教員人事は、本来教育委員会の管轄であり、こうした矛盾点などに教育委員会が気付いていないはずがない。更に言えば、上では教員の数についてだけ取り上げたけど、振り替えを行うときには教科書とか、いろいろ準備しなければならないものもあり、そうした物の中には、教育委員会に申請または報告しなければならないものも多いだろう。今回の問題は、教育委員会が黙認、または深く関わっていないと起こりえない問題のはずだ。テレビなどでは当該校の校長や教頭が生徒や保護者に説明や釈明している場面が流れているけど(これまた、視聴者の怒りをあおるため、わざとやってるんじゃないかと思うくらい、要領を得ない喋りをする校長や教頭がばかり映っているけど)、教育委員会の担当幹部が会見に応じているところは、まだ見たことがない。(僕が見てないだけかも知れないけど)もし、今回の問題で、責任と後始末の義務は各学校の教員にあり、割を食ったのは生徒たち。そんな結末に落ち着くのなら、少なくとも高校教育の先行きは暗いと思う。それにしても、こうした振り替えを行っていた学校の教員たちは何を考えていたんだろう。もし自分が担当する教科や大学時代に学んできた教科が別のものに振りかえられたとしたら、自分がいらない教師だと言われたような気になり、自分の存在理由を疑いたくなるではないか?そう思うと、なぜか言いようのない悔しさがこみ上げてくる。2つめも書こうと思ったけど、眠いので、続きは次回。