チャチャモラーダ ── ノスタルジア・スケッチ XII ──
少し遅くなった夕暮れの中、京阪出町柳駅のそばは沈丁花の香りが漂い始める。日だまりの残ったドアをくぐると、マスターがいつもの笑顔で迎えてくれた。「いらっしゃい」老人特有の、どこか空気の抜けるような声。僕は定位置になりつつある一番手前のボックス席に身を沈めた。「引っ越し、大変だったみたいだね」「はい。やっと終わりました」引っ越しの日は決まっていたのにぐずぐずしていて、4日連続徹夜という無茶で荷物をまとめ、ついさっき東京に向けて送り出したばかりだった。「ブレンドと、あと卵サンドください」偶然入った喫茶店で、たまたま食べた卵サンドのおいしさが忘れられず、以来しょっちゅう顔を出すようになった店だった。偶然にも、ここで最初に注文したものと最後に注文したものが同じになる。サイフォンでコーヒーを淹れながら、マスターが尋ねる。「いつ、向こうに行くの?」「最終の新幹線に乗ろうと思っています」「そっか、急だね」運ばれてきた卵サンドと僕の時だけいつも濃いめに入れてくれたコーヒーを、最後の晩餐ってこんな感じかな、と思いながらゆっくり味わう。食べ終わると、やっと引っ越しが終わった安心感が沸き起こり、急に眠くなってくた。だけど、ここで眠気に負けてしまったら、新幹線に乗るどころか朝をここで迎えることになってしまう。何度も瞬きを繰り返して、重くなったまぶたをぎゅっと上げた。そんなことをしていると、いつの間にか側に来たマスターがグラスをテーブルに置いた。「最後だから、ちょっと珍しいジュースをごちそうしよう」葡萄ジュースのような色合いのグラスを一口飲むと、いろんなフルーツが入っているようだけどすっきりとしてどこか優しい味が口に広がる。「ペルーのジュース、チャチャモラーダと言うそうで」僕の反応をじっと窺っていたマスターは、僕が笑ったのを見て、ほっとしたような顔になりながらこう教えてくれた。「ペルーでは、友人が尋ねてきた時にこのジュースを出すそうです」「で、このジュースには一つ約束があって、友人の家に遊びに行ってこのジュースを出されたら、近いうちにもう一度遊びに行ってこのジュースを飲まなければいけないそうですよ。で、また遊びに行ってもう一杯を飲んだら、もう一度遊びに来ないといけなくなる。そんな風に、お互い元気でずっと仲良くおつきあいしましょう。そんな意味を込められたジュースなんです」そしてマスターはニコリと笑うと、こう言った。「東京に行っても、ぜひもう一度チャチャモラーダを飲みに帰ってきなさい。いつ来てもいいように、ちゃんと用意しておくから」僕は、マスターの方を向いて「はい」と答えると、もう一度そのジュースを口にした。その味は、さっきより深く優しくなったような気がした。「私も年だから、早く来ないとごちそうできなくなっちゃうよ」70歳になったばかりのマスターは、ちょっと湿っぽくなった空気を払うように、こう言って大声で笑った。僕が次にその喫茶店に顔を出したのは3年後、京都で開かれた研究会に出かけた時だった。店は3年前と同じ佇まいでそこにあった。店の扉を開くと、3年前よりちょっと痩せたマスターサイフォンに向かい合っていて、その隣には初めて見る40くらいの女性がいた。「いらっしゃいませ」マスターが3年前よりも空気が多く混じった声で挨拶してくれた。驚くでもなく淡々と挨拶してきたことに、相変わらずお元気だったことにホットしつつも、ちょっと寂しさを感じていた。いつもの席は埋まっていたので、カウンターの一番奥に座る。タバコを口にくわえながら、カウンターにたてられたメニューを見ていると、マスターがカウンター越しにグラスを置いた。グラスの中はお冷やではなく、紫がかったジュースが入っていた。「いっらっしゃい。お久しぶりで」そう言うと、マスターはニタリと笑いかけてくれた。