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テーマ:中国&台湾(3304)
カテゴリ:旅行
2005年8月末から9月始めに行った旅行記の続きです。
年内完結に向けて、しばらく旅日記で頑張ります(^^ゞ 敦煌2日目。 朝、迎えに来たタクシーに乗り、一路、玉門関を目指します。 敦煌の街から西北へ約80km。 車は敦煌の街を出て、何もないゴビ灘(たん)の中を猛スピードでひた走ります。 途中までは、綺麗に舗装されているので、極めて快適なドライブです。 玉門関までは、この猛スピードで走っても、1時間半かかります。やっぱり遠いなぁ。。。(-_-) 1時間ちょっと走ると、玉門関の入り口に到着。 そこにゲートがあり、一旦、車を降りて入場料を払います。 払い終わって車に戻ると、ゲートのバーを上げてくれます。 そして、そこからさらに走ること10分ぐらいでしょうか? 道路の舗装が途切れ、土の上に轍だけがある道をズンズン進みます。 しばらく走ると、玉門関が見えてきます。 荒涼とした平原の中にポツンと存在する玉門関。 入り口のところに、こうした門と後ろ側にちょっとした展示館がありますが、周囲には、何も無いことに結構驚きます(^_^;) まさにゴビ灘の中に、ポツンと存在している、そんな感じの場所です。 入り口の門を入ってからスタコラと歩きます。 徐々に近づいていく、玉門関。 砂漠地帯特有の空の青さと短い草の緑が映えます。 テクテク歩いて、ようやく到着。 これが玉門関です。 玉門関は、この後訪れる陽関とともに、漢代の西域の守りの拠点となっていた関所です。 漢の勢力範囲はここまでであり、ここや陽関を超えると、その先は、匈奴の支配下にある異国の領土。 まさに辺境の地であり、ここから先へ向かう旅人は、どのような心境であったのかと思います。 あたりを見渡してみると、まさに荒涼とした大地が広がっています。 そして、よく見てみると、山並みの手前に玉門関を守っていた城壁が見えます。 これが漢代の長城です。 #後程、もっとハッキリした長城を見に行きます。 さて、玉門関には、なぜか馬を連れたおばちゃんがいます。 このおばちゃんが話しかけてきます。 玉門関は写真でご覧いただいたように、周りが柵で囲われ入れないようになっているのですが、このおばちゃん、10元くれれば中に入れてやる、ということなので、中に案内してもらいました(^^)v と言っても、中には何かがあるわけではありません(^_^;) ただ、壁の様子が大変よく分かります。 また、この近隣には、こんな草が生えています。 これは、ラクダ草といって、ラクダしか食べない草だそうです。 ご覧のように、鋭いとげがあるのですが、口から血を流しながらモシャモシャ食べるのだとか(^_^;) 乾燥地帯における彼らの貴重な食料です。 さて、言葉がそこそこ通じると分かったおばちゃん。 帰りがけに営業してきます(-_-;) おばちゃん:実は、このあたりで発掘された茶碗があるのよ。ほら、これなんだけど。 あるきち:ふーん。(それ、どう見ても新しいものに見えますが(^_^;) おばちゃん:本当は貴重なもので、渡せないんだけど、子供が学校に行くので、お金が要る。だから、これを売ってやる。200元でどうか? あるきち:要らない、要らない(ちなみに、骨董、本当に価値のあるものを勝手に買って持って帰ると手にお縄がかかります) おばちゃん:分かった。150元でどう? あるきち:要らない、要らない おばちゃん:じゃあ、いくらなら買うんだ? あるきち:だから、好きじゃないって!(中国だなぁ・・・(^_^;) と、退散(苦笑)。 車に戻って、さらに奥へ入っていきます。 砂利道をガタガタと走ります。 次に向かった目的地が、先ほど遠くに見えていた漢代長城です。 文字通り、漢の時代に作られた万里の長城の遺跡です。 え~、中国にかなり行っているように見えるあるきちですが、万里の長城はここしか見た事がありません(汗) 乾燥地帯だから保存状態が良いのかもしれませんが、このようにしっかり残っているところもあれば、 ちょっと崩れちゃってるところもあります。 また、こんな変わった形のものもあります。 これは烽火(のろし)台。 何かあったら、これでリレーでつないで通報するようになっていたわけです。 ちなみにゴビ灘の中には、このような烽火台の跡が点々と存在しています。 ここは強敵・匈奴との戦いの最前線基地だったのです。 さて、この漢代長城があるあたりの景色はこんな感じ。 月の世界のような雰囲気のところです。 まさに乾燥地帯。日本ではまず見られない景色ですね。 さて、この後は、もう1つの関所跡。 陽関に向かいます♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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