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テーマ:中国&台湾(3304)
カテゴリ:旅行
2005年8月末から9月始めに行った旅行記の続きです。(今までの一覧)
暑い暑い火焔山を出発し、山の裏側に回っていきます。 これが、あのひだひだの火焔山の真裏になります。 この辺の山は、どこも赤茶けていて、まるで火星のようです(^^;) そんな火焔山の裏側にかつての仏教遺跡があります。 柏孜克里克(ベゼクリク)千仏洞 火焔山の山麓に掘削された石窟群。 6世紀の麹氏高昌国の時代から、唐を経て元の時代まで、開削が行われていたとされます。 その最盛期は西ウイグル帝国がトルファンを統治していた、9世紀半ば。 現在のウイグル人はイスラムに改宗していますが、この時代までは敬虔な仏教徒だったのです。 敦煌でも見られたように、石窟の中に仏像を設置し仏教壁画を描いて、寺院としていました。 その遺構が、今に残されています。 ここに描かれた壁画は、文化的な価値の高いものが多かったようですが、偶像崇拝を嫌うイスラム教勢力の伸張により徹底的に破壊が進んで失われてしまいました。 その中でも残されていた誓願図という壁画。 この壁画は、帝国主義時代に列強各国の探検隊(イギリスのスタイン、日本の大谷探検隊など)によって、削り取って持って行かれ、今はごく一部を残し、ただ壁面が残るのみになってしまっています。 つまり現在は、石窟の形はあるものの、中身はがらんどうになってしまっているわけです。 この誓願図の復元の模様は『新・シルクロード』中国編の第2集「トルファン 灼熱の大画廊」の中で見ることができます。 列強の探検隊が持ち去ったと聞きますと、「全く植民地支配のようで帝国主義はどうしようもない!」と思ってしまうところなのですが、削り取って持って行った、彼らは「これ以上、ここに置いていてはイスラム勢力に破壊されてしまう。我が国へ持って帰って保護をするべきだ」という考えに基づいていたようです。 中国政府の考え方は、文化財を略奪されたという考えなのですが、当時の時代の気分を考えると、どちらが正しい行いだったのか。 歴史というものは、後世の評価を経て初めて定義されるものなのだなと感じる遺跡です。 各石窟の中身はがらんどうなので、見るべきものは特にないのですが、背景を知ると考えさせられてしまう遺跡でした。 ベゼクリク千仏洞を出て、次に向かったのがアスターナ古墓群です。 阿斯塔那(アスターナ)古墓群 何もない荒野のように見えますが、ここには高昌国と唐代西州の住民たちのお墓があります。 遺体はミイラ化して保存されており、ここからの出土品は当時の様子を知るための貴重な資料になっています。 一部の墓は公開されていて、ミイラの姿を見ることもできます。 入り口は階段状になっており、これで墓室の中に入っていきます。 で、ミイラとご対面。 #写真は撮っていません。ご安心ください。 乾燥しているのでカビっぽさもなく、ガランとしています。 永遠の眠りについていたはずの墓地に入るというのは、なんだか妙な気分です。 お墓の中から、出てくる途中、空を見あげてみます。 ちょっとしたゾンビ気分? しかし、トルファンの空は、どこまでも青いのです。 ちなみに、ここで日本人の留学生2人組に会いました。 北京の大学に語学留学しているのだとか。中国語ができるので、新疆の旅も苦にならないわけですね。 その彼女たちが、私のカメラ(ちょっと大きめのコンデジ)を見て一言。 ひょっとして、カメラマンの方ですか? 一人旅は結構怪しい人に見られますが、大きなカメラを持っていれば、”写真家”と思ってもらえる効果があるようです。 人目を気にしてしまう、小心者の一人旅愛好者(←私)には、大きなカメラを持ち歩くことをオススメしますw #以来、私の一人旅には大きめのカメラが必需品となりました(^^;) 次は、高昌故城です。 続く。 乾燥地帯ならではの景色♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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