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カテゴリ:読書と自分と
「文体」なんて言葉には、10年に2~3回しか出会わない。 出会う場所もかぎられていて、、、 新聞の書評欄とか、文学部に在籍していた元学生さんとか、作家さんのインタビューとか。 いま中島敦さんの本を読んでいて、個性的な「文体」なのは間違いなくって、とくに中国古代の物語では漢字、熟語の多い文面。昭和(といっても戦前)の物語では口語体。 中国古代ものでは注釈もどっさりついていて、時も場所も言葉にも遠さを感じます。 「文体」が舞台装置(大道具)として効いているよう。 年末年始に『目覚めの森の美女 森と水の14の物語』を読み始めたのだけれど、図書館の返却期限がきて中途で停止中。新聞書評のなかでは「独創的で奇想天外でダークでシニカル」と「詩のように美しい文章」が同居しているという。 たしかに詩的な文章です。体言止めの短文で、ジグソーパズルの断片のような矢継ぎ早なイメージの連続。でも、ほどよくまっすぐに伝わってくる。 「目覚めの森の美女」書評 時空を超える女の生きづらさ|好書好日 (asahi.com) そういえば、10年ほど前に若手の小説家さんが語っていた。 「小説に華美な韻律は必要ではない。自分は読者が集中できることを優先する。」 みたいな。 口語文で小説が書かれる現在では、特別な文体は必要なく、いかに読者が違和感なくとけこめる文体であるかが重要。なるほど。妙にクセのある文体は、なぜそうなのかの詮索のスキマを開く。 半村良さんも、小松左京さんも、北杜夫さんも、遠藤周作さんも、文体だけで見分けられるようなクセはないように思う。ある程度のページ数を追えば、題材なり展開なりから見分けられるだろうけれど。 あえて文体を工夫するのであれば、それなりの効果を意図するのだろう。 セピア色や白黒の映画フィルムのように。 若者ことばの迷走なり、高齢者の追憶なり。語り手の属性なり、時代の座標値なり。 ユーミンさんの「春よ」の擬古文ふうは、今も昔もかわらぬモノを歌っているんだろうなぁ。 中島敦さんの「李陵」の青銅色のくすんだ文体は、2000年の昔のひとと現代のひとの考え方には、違うところもあるけど通じるところもあると、覚悟して読めと言っているのかなぁ。 また、いきつかないまま、中断します。 書評を読みながら『目覚めの森の美女 森と水の14の物語』 | 七転八べぃ≒(七転八倒+七転八起)÷2 ≒あさ・がお - 楽天ブログ (rakuten.co.jp) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年06月07日 02時09分03秒
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