テーマ:『義経』(332)
カテゴリ:『義経』
う~む、ますますわからん。
今回の大河では、義経は終始苦悩に満ちながらも、思慮深くものわかりのよい人物として描かれていたはずである。軍事のみならず、人の感情の機微にいたるまで大局的に大胆かつ繊細にみわたせる非常に優秀な武将として扱われていたようにみえる(と皮肉のひとつもいいたくなる)。こうした優等生的な人物設定にはまったく共感はできないものの、それが作り手の描きたかった世界なのだろうと思い、その設定を受け入れてきたつもりだ。 ところがそんな思慮深いはずの義経が、平家から奪還した神器をあっさりと朝廷に返納し、そのことで頼朝の理解が得られないといじけて涙を流す。・・・おいおい、この期に及んで急にそんなおバカさんになられても困るぞ。頼朝が目指すのは武士自身が政事を仕切る世の中だということを義経自身が頼朝の口から聞いていたはずではないか。 義経は都育ちゆえ頼朝とは朝廷に対する畏敬の度合いが違うのだ!というのであれば、そういう説明が必須であるのに、それらしき描写は一切ない。前回、戦後の無常感を漂わせまくっていた以上、戦勝に浮かれて理性を失ったなどということもありえない。弁慶あたりが一言忠告でもしていればそれなりのエクスキューズもあろうが、これまでの郎党たちのふるまいからわかるように、今回の彼らは弁慶ですら単に盲目な義経の追っかけに過ぎない。 したがって、なぜ兄はわかってくれないのだと義経が涙を浮かべても、さっぱり説得力がなく、まったく共感できない。頼朝でなくとも「九郎は何もわかっておらん!」と怒りたくもなる。 もうひとつ言うなら、安徳帝のすりかえ作戦の顛末もお粗末きわまりない。もっとダイナミックな展開になるかと期待したのに、単に平家の血筋がつながった、めでたしめでたし、ということなのか? それを義経が見逃したのは平家に対するシンパシーがあったからだ、ということを言いたいのかもしれないが、今さらそれを語ってどうする? 平家に恨みはありません、戦いは宿命だったのです、とても哀しいです、すりかえのことは見逃すから水に流してくださいとでも言いたげだ。 この大河、役者さんはおおむね素晴らしいのだ。心配されていた滝沢くんですら、このところようやくさまになってきていると思う。映像はもともときれいだ。とにかく、脚本がどうにもこうにも。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 7, 2012 11:26:38 AM
コメント(0) | コメントを書く
[『義経』] カテゴリの最新記事
|
|