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法喜が語る

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2007年11月29日
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テーマ:宗教的生活(67)
カテゴリ:法喜の教え
 私はテーラワーダ-(上座部仏教)わかりやすく言うと小乗仏教で出家したことがある。
その時にダンマナーダーという名前をいただいた。日本語にして法喜である。これは心理を喜ぶという意味だ。ミヤンマーで短いながらも出家して瞑想を繰り返した。
 タイに戻ってきてバスに乗っている時に、ふとも物事の真理に気が付いた。
現在は日本に戻ってきて普通の生活をしている。
上座部仏教はまず自己の救済をし、そして他人を導くというものである。
 一般的な見方をすれば、ひたすら自らの修行、向上が最優先。利己的な宗教のように見られる。それは過った道に人を導かないためだ。
私個人は大乗も上座部も、はたまたキリスト教やイスラームなどの宗教に関係なく瞑想により自らの心と向かいあうことが大切だと思っている。
真理を喜ぶ。私の法喜という名前は師の私への警鐘のような気がしてきた。
この名前をいただいた時は、恥ずかしながらなんて自分に合った名前だと喜んでいた。
今までの自分の考えに、行動に当てはまるからである。
しかし真理を見てそれに喜んでいるだけの自分の姿がある。
真理はすばらしい。でもそれがなんなんだろう?
そんなものは紙に描いた餅なのだ。
 真理を喜ぶのでなく、真理を実践するから意味があるのだ。
私の法喜という名前はその先に向かえという師からの暖かい名前ではなかったのだろうか?
仏教では自分で気が付くのが大切なのだ。
あえて師はヒントとして法喜という名前を私に与え、法を喜びその先に進めと気が付かせたかったのではないだろうか?
 今までの自分が恥ずかしい。
真理を知らなくても良い行いは出来るものだ。
ドストエフスキーの小編にもあるように聖人は神がいなくても聖人なのだ。
神がいて、真理があってなになるだろうか?
実践するから意味があるのだ。
これからは生きるのでなく活きていこうと思う。






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最終更新日  2007年11月29日 21時21分54秒
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