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わたしの足跡

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2005.05.04
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DALIDAという歌手を御存知ですか?5月2日が彼女の命日でした。
(日本語のサイトもあります。)
フランスではダリダの命日にちなみ、5月2日、3日の二日間に渡り彼女の生涯をフィルム化したものが放映されました。

『許して下さい。人生は辛すぎました』という言葉を残して・・・
1987年5月2日帰らぬ人となりました。

2日の前編が終わり、私の頭の中はダリダの事で一杯になりました。
3日は後編が放映される時間を待って過した一日となりました。

なぜ此処まで魅きつけられたのかわかりません。決して私の好む女性像ではありませんのに・・・

彼女は生きている時も、亡くなってからも世界中の人々を魅惑させる力を持っているのかもしれません。

フランスに来まして、彼女の名前は当然の如く、何時でも何処でも耳にします。
勿論彼女の曲も・・・今でも彼女を知らない世代にも歌い継がれています。
勿論日本でも・・・

1933年1月17日エジプト・カイロにてイタリア人移民の子として生まれる。

本名ヨランダ。

幼い時に父を亡くす。

1954年、母親に隠れて応募した『ミス・エジプト』で見事に王冠を獲得する。

その後、母親に反対されながらも女優への夢を抱き、フランス・パリへと・・・

小さな屋根裏部屋に住みながら、様々なオーディションを受けるが、結果はいつも落選。

あるオーディションを受けた時の事、いつものように落選し、ブックの写真もごみ箱に捨てられたが、その時に一緒にオーディションを受けた女性がその写真を拾い、そのブックに書かれていた彼女の住所まで届ける。

その女性は、彼女を食事に誘うが、ダイエットしていると言い断る。本当はお金が無い事が理由というのは、すぐにその女性に見破られてしまう。

その女性は、バーの歌い手のオーディションを受けるように進める。

ダリラ(当時の芸名)は、自分は女優であり、バーの歌手などやる気はないと断るが、食べていかなければならないでしょ?という彼女の言葉で、そのオーディションを受ける事にする。

そのオーディションに通り、彼女はバーで唄うようになる。

そこで、レコード会社社長のエディ・バークレーとプロデューサーのリュシアン・モリスと出会う。彼らは一瞬にして彼女の魅力の虜となってしまう。

そこで芸名『ダリダ』誕生となる。

2曲目『バンビーノ』の大ヒットにより、世界で1億2000万枚の売上げとなった。

彼女は、初めて自分の家を購入し、もてた事が幸せだった。

初めての仕事を見つけてくれた女性は、まだ仕事もみつからないまま・・・
その彼女に自分の家に一緒に住むように提案する。
ところが、彼女から結婚を決めた事を聞かされ、羨ましく思うが唯一の友人、そして恩人である彼女の幸せを心から喜ぶ。

その頃、ダリダはプロデュサーのリュシアンと恋に落ちてしまっていた。ダリダはエジプトから出てきた純粋な女の子の心のままリュシアンを愛し、当然彼との結婚、彼の子供だけを願う。
そこには歌手としての成功など彼女にはなんの価値もなかった。

リュシアンは子供もいる妻帯者であった。

彼女は報われない夢(結婚、子供)に苦しむ日を過す。リュシアンは妻と別れ、ダリダとの生活を決意するが、結婚は拒否する。
ダリダは5年間、毎日ハードスケジュールをただただこなしながら、結婚と子供の夢が叶えられない事に苦しむ毎日を過す。

その間、巡業先の日本のホテルでマリリンモンローの死を知り、かなりの打撃を受ける。

5年後、リュシアンが結婚を決意した時には、ダリダはすでに疲れきっていた。

リュシアンは、本当にダリダを愛していたけれども大スター『ダリダ』を壊したくなかったが為に、子供を設ける事はあくまでも拒み続けた。

そして離婚・・・

ダリダの実の弟(ブルノ、後にオルランドと改名する。)が彼女のプロデューサーとなる。

その間、ゴールドディスク・ワールドレコードオスカー賞・芸術文化勲章・シャルルドゴール将軍よえいゴールドメダルetc・・・様々な賞を受賞する。

続く・・・第二幕へ・・・






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最終更新日  2005.05.05 21:20:05
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