カテゴリ:「ジェンダーと哲学」の本
日本の明治、大正時代の映画にはかなりの割合で、芸者さんが登場します。また、富士山、芸者といわれる、日本文化の代表のような形で海外に紹介されているわけで、芸者さん、舞妓さんというと今でも憧れといえば憧れ。若い人たちには京都の舞妓さんツアーがはやっているようです。京都に行き、舞妓さんに仕立ててもらって写真を撮ってくれるそうです。先日も会社の若い子たちがその写真を見せてくれました。見事に変身していて、とても楽しげでした。また、神楽坂にいくと、今でも三味線の音が流れてきたりして、風流だなと思うことがありますが、最近は東京の料亭ではほとんど芸者さんの姿は見ないですね。
江戸の研究家である田中優子さんの著書とあって、楽しみにしていました。芸者とはそもそも何者なのかというと、その前身は江戸の初期の踊り子であるとおっしゃっています。江戸時代には「江戸芸者」と「深川芸者」と「廓芸者」があったそうです。 江戸の初期(1618年)に吉原遊郭が作られました。ここはなんと悪所と言ったそうです。 初期の遊郭には能舞台、歌舞伎舞台が作られて、様々な舞、芸能が行われていたのだそうです。遊女は娼婦である以前は芸能民だったそうです。そして、最高の遊女は、娼婦として最高なのではなく、能の太夫としてまず一流だったということなんです。遊女の遊は「移動する」という意味で、全国を移動する女性芸人だったのですね。 そして歌舞伎の流れですが、江戸初期は、女歌舞伎といって、女性が男装し、男が女装する倒錯した世界だったのです。この女歌舞伎は非常に魅力的な力があったのでしょう。 吉原が開設される前に、江戸では、色と芸能が渾然一体となった旅芸人が集まり、1612年ごろには、かぶき者を300人捕らえて処刑したり、女歌舞伎を禁止したりしていたのだそうです。幕府はこの遊女たちのパワーを危険とみなしたわけですね。 もともと遊女は芸と色両方を売っていたわけです。芸と色は切り離せないものだったのでしょう。しかし幕府は芸と色を分離して管理しようとしたそうなんです。ここはとても重要ですね。権力にとって芸と色が一つであることはとても危険だったのですね。これが、遊女と芸者の分離の基なのでしょう。芸者は色を売らずに芸を売るという流れになり、花魁は、色を売るということになり娼婦となったわけです。 江戸時代の流れから、明治、大正になると、芸者たちは芸を売り、建前は体は売らないということになったわけです。しかし、もともと芸と色は切り離せないものだったに違いありません。芸者は大正時代を境に滅んでしまうのですね。人をもてなすということは、食、芸、色によってもてなすというのが古代からの人の基本的もてなしだったということなんですね。芸者の歴史を知ると、本来は外国人が捉えた、富士山、芸者という文化はもっとも日本を代表する象徴だったというのはまんざらはずれていないのかもしれません。とても勉強になりました。そのほかいろいろなことがこの本を読むと見えてきます。まだまだ書き足りないですが、遊女asomeの心意気、しっかり受け継いで、表現していかなければと思います。新書ですのですぐに読めます。ぜひ読んでみてくださいね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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