50歳の乾いた呟き
子供達の成長と思い出を家族記録として残そうと、本格的にブログを始めて今年で早10年。育児が大変な時期に一段落して、当時、息子10歳、娘5歳、私は40歳。最初の数年は故意にネタを作っては写真を撮って趣味と嗜み、環境的に家の事中心で友人との交流もままならなかった私の心の拠り所と化し、口には出せない感情を吐き捨てる場所でもあったはずなのに、いつの頃からかネタもマンネリ化してきて「今日も書かなきゃ・・・」とストレスになっていることに気づいた。それは好きなことを仕事にすると嫌いになるという心理にどこか似ているのかもしれない。時間が経てば経つほどに、封じ込めて背けてきた虚妄の自分の束縛から解放されたいと思うと同時に、これまでの書くことへの執着は何だったのか?と今後続けていくことの意味を段々と見出せなくなり、タイミング的にも10年一区切り、今年50歳を迎えた直後、時代も平成から令和に移ったことを機にしばらく距離を置いてみることにした。ブログを書く者にとって長らく更新を途絶えさせるとフェードアウトというのが自然の流れなのかもしれないが・・・それまでPCを前にすると1日1度は立ち寄る場所だったのにそうと決めたら冷めるのは早かった。ページを開くことも忘れ、1月後にはまるで他人事のようにもうどうでもよくなっていた。ところが。半年以上経った先日、曖昧な記憶を探るべく久しぶりに過去の日記を遡って読み返しているうちに、その時その時の想いや映像が脳裏に蘇り、今更ながら色々な事を積み重ねてきたからこそ今がある、この場所は紛れもなく私の生きてきた証であり、綴ってきた事は決して無駄ではなかったのだと改めて継続していく理由が見つかったような気がした。また、ブログ管理ページのアクセスレポートを見ると、大変ありがたく更新しなくなった今でも過去日記に1日平均500以上のアクセスをいただけていることも後押ししてくれた。長きに渡って綴ってきた日々の献立日記は、そもそも子供達に家庭の味を残すために始めたこと。もしも将来、母の味を思い出して自分で作りたくなった時に役立てたらと、レシピだけでは伝えきれないちょっとしたコツ等を事細かく載せてきたけれど、手を出し尽くした感はあるのでもう十分だろう。性格的に不器用なのか、1つの事に囚われ過ぎると他の大事なものを見失ってしまう。取り留めて書くことではないけれど、やはり思い入れの強かったこの場所は残しておきたいと、趣味の域を超えて依存しすぎない程度に、今後は備忘録として細々でも書いていこうかなと!【追憶と葛藤】10、20、30、40代と、それぞれの時代で、環境に気持ちに変化があり、今年で大台50歳。さすがに人生半世紀ともなると大きな節目と感じ、「桁が上がっても1つ歳をとっただけ」と、あまり深く考えなかった今までとは意識も違い、何かと感慨深いものがある。時の経過は風も心情も変え、歳を重ねるごとに背負うもの失うものばかりが増えていく中、この先も成り行き任せでいいのだろうか?若かりし日の楽しかったことも辛かったこともあれやこれやと思い出し感傷的になったり、同世代でバリバリ働いている女性を羨ましく思い、「今の私は老いてくばかりで何もないのだなぁ」と、これまで歩んできた人生が間違いではなかったかと中途半端な自分がもどかしく。この歳になると、何もやったという自覚がないまま、一年が過ぎて行く。道半ばで終活を考えるのはまだ早い?今からでもまだやり直すことはないのか?若い頃によく当たる占い師に大器晩成と言われたことを思い出す。これから上がるか下がるかは自分次第。いつまでも道草していては未来は見えない。充実した生き方とは、誰かに与えてもらうものではなく、自身で導いていかなければ、真の至福は得られないのではないだろうか。そんな自問自答を繰りしながら、1度きりの人生だから。昔読んだ小説や漫画、ドラマや映画が経験を積んで当時とは違った尺度でみれるようになり、子供達に手がかからなくなってきた今、現状打破しなければ!これまで家族優先で置いてきぼりにしていた自分を探して、まずは未だ消えない足跡を巡って模索してみるのもいいかもしれない。 回りくどくなってしまったけれど、子供達が時々でも楽しいと感じられる生き方を、家族の幸せを願いつつ、そしてこれからは可能な限り、自身の幸せを得るために止めてしまっていた時計の針を少しずつでも進めていけたらと思う。長生きは望まないが、「今日も何もない1日」で終わらぬよう、[朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり]20、30年後、いずれ訪れる終着点でそう思えるような悔いのない末路を迎えることを今の私の新たな目標としよう。幸せの基準は人それそれ、しがない50歳の独り言ではありますが今の自分の心境として(^^)