武家政権
義経は壇ノ浦の戦いの後、都にもどり後白河法皇に官位を与えられたために、鎌倉の頼朝と対立せざるを得なくなりました。頼朝は都に兵を送り、法皇を問い詰め、義経を捕えるために、自分の部下(御家人)を守護や地頭として各地に置くことを認めさせたのです。義経は平泉に逃げ、奥州藤原氏の保護を求めましたが、逆に討たれ、さらに平泉も頼朝によって滅ぼされました。建久三(一一九二)年、頼朝は征夷大将軍に指名され、鎌倉を都にして鎌倉幕府を築き、これ以後、明治に至るまで武家政治が続くことになります。鎌倉ではまずその寺社の造営などに、平泉の文化を引き継ごうとしました。頼朝は奈良の大仏殿の復興に力を入れ、建久六(一一九五)年の供養の際には数万の兵を率いて上洛しています。この恩義により、東大寺、興福寺の僧兵は,承久の変のとき、後鳥羽上皇の召集に従いませんでした。頼朝の死後、幕府は十三大の合議制に移りました。これは政治の実権を将軍が一手に握るのではなく、幕府の有力者十三大の合議によって決定するというものでした。しかし、頼朝の妻、北条政子の父、時政が実権を握り、その後の政治を鎌倉で執り行いました。これを執権政治といいます。後鳥羽上皇は承久三(一二二一)年に幕府を討とうとしましたが、敗れ隠岐(おき)の島に流されました。朝廷はその後、幕府の監視下に置かれます。京に六波羅探題(ろくはらたんだい)という役所が置かれたのです。