聖像破壊令
ビザンティンとフランクは、密接な協力関係ではありません。政治的な不信感は、以前からつづいている厄介な宗教上の軋轢(あつれき)によって一層ひどくなったのです。この間題はキリスト教の礼拝において聖像をどう考えるかという点に関するものでした。イサウリア朝の皇帝レオ三世は、七一七-七一八年のコンスタンティノープルの包囲を解いて、この都をイスラム教徒から救った後、キリスト教の教会から聖像礼拝の悪弊を一掃したいと思い、聖像破壊令を発しました。彼はおそらくイスラムの偶像崇拝という非難に答えたのでしょう。それに、イスラム教徒や蛮族によって軍事的に敗退をさせられたのは、神が偶像崇拝的な礼拝を嘉(よみ)し給わぬためであると信じていたキリスト教徒が大勢いたのも事実です。だがローマの教皇も、コンスタンティノープルの宗教上の指導者たちの多くも、どちらの側も相手を異端ときめつけて非難し、皇帝の偶像破壊政策に抵抗したのです。