蘇我氏の滅亡
中臣鎌足(なかとみのかまたり)は,中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に接近し,蹴鞠(けまり)の会で蘇我氏打倒の思いを打ちあけます。それから1年半後,2人は,645年6月の朝鮮からの使者が来日する日に,宮廷で計画を決行することにします。当日は雨でしたが,中大兄皇子は,みずから長槍(ながやり)を取って身を隠しました。鎌足は,宮廷に来た入鹿(いるか)の刀を腰からはずさせました。しかし天皇の御前に出た入鹿が、切りつけることを命じてあった者が,恐怖のあまり体が動かないのを見て,あやしみだしたので,中大兄皇子は機会を失ってはならないと感じ,すばやく飛び出して剣で入鹿を斬ったのです。おどろく天皇に,皇子はひれふして,ことのしだいを述べました。蘇我氏を助ける者はちりぢりになり,蘇我蝦夷(えみし)は屋敷に火をつけて自害し,蘇我氏は滅亡(めつぼう)しました。