永遠の0(ゼロ)・百田尚樹
☆永遠の0(ゼロ)・百田尚樹(ひゃくた・なおき)・講談社文庫、2009年7月15日、第1刷発行・単行本、2006年8月, 太田出版、2006年8月♧プロローグ・米軍パイロットの述懐♧第1章・亡霊祖母の49日が済んでしばらくしたある日、健太郎と姉は祖父に呼ばれ、そこで初めて実の祖父のことを聞かされた。祖父の名は、宮部久蔵と言い、終戦の直前に特攻隊で死んだという。祖母と最初の夫である宮部との短い結婚生活の間に生まれたのが、健太郎と姉の母である清子だった。祖母は戦後、今の祖父と再婚、男の子を二人産んだ。姉は、母が「死んだお父さんはどんな人だったのかな、私はお父さんのことは何も知らない・・・」と言うのを聞き、何とかしてあげたいと思ったという。そして、健太郎にアルバイトで良いから調査に協力して欲しいといった。健太郎が厚生労働省に問い合わせて分かった祖父の軍歴は「宮部久蔵、大正8年生まれ。昭和9年、海軍に入隊。昭和20年、南西諸島沖で戦死」となっていた。私生活では、昭和16年に祖母と結婚。17年に母が生まれたが、結婚生活はわずかに4年。その間、祖父はほとんど戦地にいたのだった。祖父がどんな人だったかを知るには、彼を覚えている人に当たらないことにはどうにもならない。健太郎は、厚生労働省に教えてもらった戦友会宛に、手当たり次第に手紙を書いて、祖父のことを知る人がいるか問い合わせた。最初は渋々始めた健太郎だったが、一人、また一人と、祖父の話を聞いて回るうちに、いつしかのめり込んで行った。♧第2章・臆病者・元海軍少尉、長谷川梅男の話「奴は海軍航空隊随一の臆病者だった。何よりも命を惜しむ男だった」と言い放った。そして如何にゼロ戦が優秀な戦闘機だったか、自分達は国のために命を惜しむことなく勇敢に戦った。出撃はほぼ毎日有り、その度に多くの未帰還機が出たが、宮部機はいつも無傷で帰艦した。不思議に思ってラバウルの古参搭乗員に聞くと「奴は逃げるのが上手いからなあ」と言った。♧第3章・真珠湾・元海軍少尉、伊藤寛次の話へ艦を守る艦上戦闘機乗りだった宮部さんの操縦技術は一流だった。彼は「妻のために、死にたくない」といい、戦争の中にあっても日常の生活を生きていた人だった。♧第4章・ラバウル♧第5章・ガダルカナル・元海軍飛行兵曹長、井崎源次郎の話私は15才で海軍に入った。いずれにしても20才になったら徴兵が待っており、単に海軍の方が良いかなと思ったからで、背景には貧しさがあった。宮部さんとはラバウルで会った。いま自分か生きているのは宮部さんのおかげだ。ある時「自分の祖父は徳川幕府の御家人で、上野の山彰義隊と戦ったと聞かされた」と話してくれたことがあった。♧第6章・ヌード写真・元海軍整備兵曹長、永井清孝(ゼロ戦のエンジンの整備兵)の話。宮部さんは、勇ましいところが全くない人だった。また、本人から聞いた話として、次のように語った。「父親は相場に手を出し破産。債権者に死んで詫びると言い首を括った。自分は母との生活を支えるために中学を中退。その母も半年後に死亡。金も身よりも頼る親戚もない、天涯孤独の身の上になり海軍に士官した」♧第7章・狂気・元海軍中尉、谷川正夫上海第12航空隊で一緒だった。宮部さんは、非常に勇敢な恐れを知らない航空機乗りだった。マリアナ海沖戦では日本軍は数時間で壊滅状態だったが、アメリカ軍の損失は皆無だった。日本軍は如何に敵を攻撃するかばかり考えていて防備は皆無だった。特攻隊員は志願を募ったということになっているが実際は命令で、軍人の習性として上官の言葉に反射的に従ったのだ。真珠湾攻撃が卑怯な奇襲となってしまったのは、ワシントンの駐米大使館員の職務怠慢が原因だった。♧第8章・桜花・元海軍少尉、岡部昌男の話宮部さんは、練習航空隊の素晴らしい教官だった。海軍は昭和18年からは大量の予備学生(大学出身の士官)を採った。そして「桜花(人間が操縦するロケット爆弾)」のことを指して、あれほど大きな恐怖を味わったことが無い。戦後、スミソニアン博物館に展示されていた「桜花」には、「BAKA-BOMB(バカ爆弾)」と言う名札がつけられていた。岡部は、自分が死ぬことで家族を守れるのならと特攻隊に志願したが「それでも特攻隊を断固否定します」と言い切った。♧第9章・カミカゼアタック・元海軍中尉、武田貴則(戦後、元一部上場企業の社長)今日は宮部久蔵の思い出話しかしないと前置きした武田に向かって、同席した新聞記者は特攻隊員についての持論を展開「自ら志願した特攻隊員は、心情的には殉教的自爆テロリストと同じです」と言い切り、執拗に話すように迫った。彼の言葉に「私はあの戦争を引き起こしたのは新聞社だと思っている。日本をあんな国にしてしまったのは新聞記者達だ!・・・軍部を化け物にしたのは、新聞社であり、これに煽られた国民だったのだ」そして「君の政治思想は問わない。しかし、下らぬイデオロギーの視点から特攻隊員を論じることはやめてもらおう。死を決意し、我が身なき後の家族と国を思い、残るものの心を思いやって書いた特攻隊員たちの遺書の行間も読み取れない男をジャーナリストとは呼べない」と言い、記者を帰らせた。武田は、健太郎と姉に向かい、特攻隊を産んだ海軍と言う組織のこと、海軍兵学校出の士官達への批判などを語ったあと、宮部の話をした。宮部さんは素晴らしい教官だった。多くの予備学生から慕われていた。優しい物腰と丁寧な口調は、全然軍人らしくなかった。しかし、それでいて全身には何とも言いようのない凄みがあった。私たちは、あれがプロフェッショナルというものかと噂したものだ。そして別れ際に「彼こそ海軍の至宝であり、戦後の日本に必要な人だった」と話した。そして「おじいさんは、戦争では無く海軍に殺されたのよ」と言う健太郎の姉に、「あなたのおっしゃるように、あの人を殺したのは海軍かもしれません」とこたえた。第10章・阿修羅・元海軍上等飛行兵曹、景浦介山(元ヤクザ)奴は死ぬ運命だった。自らその望みを断ち切ったのだ。俺は、命がけで戦っている中で「生きて帰りたい」などと言う奴を憎んでいた。だが、彼の腕は神技だった。憎みつつ「宮部よ死ぬな」と思っていた。20年5月にはドイツが降伏、日本軍の命運も尽きようとしていた。南九州の航空基地は壊滅的な被害を受け、航空機のほとんどを北九州の基地に移していた。俺も大村に移ったあと、終戦の少し前に鹿屋に移った。そこで夢にまでみた宮部と再会。自分でも何故か分からないが嬉しかった。終戦直前、特攻隊員たちの中に宮部の姿を見た時、俺の体は凍りついた。俺は「宮部の機を絶対に守り抜く」と飛び立った。意外なことに宮部が乗っていたゼロ戦は五ニ型ではなく、真珠湾の頃の古いニ一型だった。宮部の飛行機だけを追っていた俺の機体は、突然ものすごい振動と共に発動機から煙を吹き出した。みるみるうちに宮部たちの編隊が遠くに消えて行った・・・。自分が「宮部さん、許して下さい」と呟いているのに気づいた時、涙がとめど無く流れた。数日後、戦争が終わった。俺は号泣した。俺が泣いたのは他でもない。宮部のことだ。・・・宮部のことは忘れた。今日まで思い出したことはなかった、と言い、話を切り上げた。別れ際に、亡くなったおばあさんは「幸せな人生だったか」と聞き、返事を聞くと、突然怒鳴るように「帰ってくれ!」と言った後、思いがけない事が起こった。健太郎を抱きしめたのだ・・・。♧第11章・最期・大西保彦、元海軍一等兵曹、特攻隊通信員鹿屋基地で、20年の春から特攻隊員の通信を受けるのが仕事だった。宮部さんは真珠湾以来の歴戦の搭乗員だったから、誰からも一目置かれた存在だった。最期の出撃の朝、奇妙な事があった。宮部少尉は、一人の予備士官に「飛行機を換えて下さい」と頼んだ。予備士官が乗るのもゼロ戦はポンコツになって眠っていた機体だった。後日談があると前置きして、大西は次のような話をした。あの時、特攻出撃した爆装ゼロ戦は6機だったが、一機だけエンジントラブルで喜界島に不時着、その機は宮部が乗るはずだった飛行機だったという・・・。「大西さん、その人の名は?」と勢い込んで聞いた健太郎の前で、大西はノートのページを繰った。そこには、特攻で死んだ隊員の名前の横に、「喜界島に不時着」と言う文字と、健太郎たちがよく知っている名前があった。大石賢一郎少尉、23才。予備学生13期、早稲田大学。♧第12章・流星・祖父と姉弟の話二人に向かって、祖父は「いつかはお前たちに語らなければならないと思っていた」と言い、話し始めた。全てを話し終えたあと「少し、一人にして欲しい」と言った。♧エピローグ・米兵の述懐(一部を抜き書き)あの時のゼロは、ほとんど海面すれすれに低空ギリギリにやって来た。俺たちは近接信管付きの砲を撃ちまくったが、海面が電波を反射して爆発した。・・・ゼロが4000ヤードまで近づいた時、たった一機の飛行機に何千発もの機銃弾が撃ちこまれた。ついに火を噴き黒煙を吐いたゼロはいきなり急上昇、空母上空から、背面のまま、逆落としに落ちて来た。燃える機体にあんな動きが出来るのか、あんな急降下は見たことが無い。ゼロはまさに直角に落ち、飛行甲板の真ん中に突き刺さった。爆弾は不発で、甲板にゼロのパイロットのちぎれた上半身があつた。・・・甲板の火は間もなく消し止められ、しばらく遺体をじっと見ていた艦長は「我々はこの男に敬意を表すべきだと信じる。よって明朝、水葬に付したい」と言った。 パイロットのポケットには着物を来た女が赤ん坊を抱いている写真が入っていた。翌朝、この超人的なテクニックと集中力、そして勇気を持つパイロットの遺体は白い布で包まれ、手空きの総員が甲板に整列し弔銃が鳴り響くなか、挙手の礼に送られて海中に滑り落とされ、ゆっくりと海の底に沈んでいった。