夜のピクニック・恩田 陸
☆夜のピクニック・恩田 陸・新潮社・2004年7月30日 第一刷・2005年、第2回本屋大賞、第26回吉川英治文学新人賞受賞。(作者の母校である茨城県立水戸第一高等学校の伝統行事、「歩く会」をモデルにした小説)《あらすじ》北高鍛錬歩行祭は、全校生徒が一斉に学校をスタートし、朝の8時から翌朝の8時まで、80キロの行程をゴール地点の母校を目指し、夜を徹して歩く。夜中の仮眠の時間までの前半は、クラス単位の団体歩行で、後半は自由歩行と決められている。朝から雲一つない青空が広がっていた。西脇融は青空を眺めつつ、学校への坂道を登りながら今日の歩行祭のことを考えていた。「とおるちゃーん」と、後ろから思い切り肩をどつかれた。「いってーな」その痛みに振り返ると、戸田忍が、どついたあとに続けて膝カックンをしようとする気配を察し、融は傷めている膝を庇い慌てて逃げた。忍は今年初めて同じクラスになった奴だが、とてもうまの合う男だった。教室で出席だけ取ると、生徒たちはぞろぞろと校庭に出る。クラスごとに幟を立て、1200名の生徒がクラス順にスタートしていくのだ。甲田貴子にとって高校生活最後の北高鍛錬歩行祭だ。昨夜はよく眠れなかった。校門を出て、坂道を下りながら考えていた。いよいよ来たか、この日が。高校生活最後の行事。そして、あたしの小さな秘密の賭けを実行する日が。彼女は眩しそうに空を見上げる。坂のガードレールの下を、ゴトゴトと貨物列車が走っていく。もう走り出してしまったんだから、後には引き返せない。貴子は、遠ざかる列車を横目で見送った。貴子には西脇融という異母きょうだいがいる。貴子の母、甲田聡子は、20代の時に結婚した夫と商事会社を共同経営していたが、離婚とともに一手に引き受け、そこそこ成功している。貴子は西脇融の父親、西脇恒が聡子と浮気をした際に出来た子供で、聡子はシングルマザーということになる。教師も知らないし、親戚だって知らない人がいるくらいで、周囲からは別れた夫の子供だと思われていた。西脇恒の妻は、二人のことを知っていたようだが、何も言ってくることはなかった。聡子は恒に養育費を請求しなかったし、貴子を生む代わりに彼とは一切関わりを絶ったからである。聡子はとてもオープンな人なので、貴子は小さい頃からその辺りの事情は少しずつ説明されていた。だから、特に引け目に感じたり、ショックを受けたりしたという記憶がない。2人の存在にこだわり続けていたのは西脇家の方だったように思う。高校に入学する前、西脇恒が病気で亡くなった。葬儀のとき、こちらを恐ろしい目で睨みつけていた少年の顔は、今でも脳裏に焼き付いていて貴子の中に残り続けている。だから、同じ高校に入学したと知ったときは憂鬱だった。さいわい2年間は別のクラスだったし、そのうち彼の存在も気にならなくなった。融は融で貴子のことを完全に無視していたから2人の接点は全くなかった。ところが、3年になって同じクラスになってしまった。始業式の朝、張り出された名簿を見て貴子は仰天した。周囲を見回した瞬間、やはり驚いている融とばったり目があってしまった。その時のこともはっきり覚えている。彼女は歩行祭で小さな賭けをすることにした。その賭けに勝ったら、融と面と向かって自分たちの境遇について話をするように提案しよう、という彼女だけの賭けである。けれど、彼女はその賭けに勝ちたいのか、負けたいのか、まだ自分でもよく分からないでいる。貴子には2人の親しい友人がいる。1人は、成績優秀で国立理系志望の遊佐美和子、もう1人は、高1から高2まで同じクラスだった榊杏奈。彼女は帰国子女で、中3~高2まで日本で過ごし、大学入試準備のためアメリカへ行ってしまった。10日ほど前に杏奈から届いたハガキには、もう一度歩行祭に参加したかったと書いてあったが、最後のところで貴子は首をかしげた。そこには、「たぶん、私も一緒に歩いているよ。去年、おまじないを掛けといた。貴子たちの悩みが解決して、無事ゴールできるようにN.Y.から祈ってます」と書かれていたのだ。去年のいつ、杏奈はどんなおまじないを掛けたのか・・・。やがて道は緩やかなのぼりになった。丘陵地帯のジグザグ道を、生徒たちの列が歩いていく。ところどころに白い幟が立っているところは、服装に目をつぶれば戦国時代の映画の一場面のようだ。丘の途中まで登ったところで、笛の音が鳴り響き、次の休憩になった。みんながドミノ倒しのように次々と腰を降ろしていく。夜中の仮眠の時間までの前半は、皆元気で賑やかに話しながら歩いているが、未だ未だ先は長い。ようやく前半のゴール地点が近づいてきた頃、貴子は朦朧とした頭でとりとめもないことを考えながら歩いていた。仮眠をとる学校の明かりが見えてきたものの、進まない足ではなかなか辿り着けない。午前2時10分、貴子たちはついに到着した。疲れ切っているはずなのに、校内を歩き回り、顔を洗い歯を磨いている生徒たちには逞しい活気があった。けれど一旦気が抜けてしまうと、ぎくしゃくして歩けなくなる。極限状態を乗り越えて、それぞれが思い思いに過ごしていた。団体行動が終わったいま、自由歩行で歩く生徒同士が集まっているのが目に入る。実行委員が各クラスの幟を回収していた。これから2時間後には再び走り出しているのだ。自由歩行で一緒に歩く貴子と美和子が歯磨きを済ませ、再び体育館に戻ると、もう中は完全な静寂に包まれていた。眠りはほんの一瞬だった。ゴザに頭をつけたと思ったら、次の瞬間、もう2時間経っていた。身体を起こそうにも、全身がみしみしいって、全くついてこない。外はまだ真っ暗で、体育館は皓々とと明かりが点いている。むろん、朝食などない。これから最後の点呼を取り、4時半過ぎにはここを出発するのだ。起き上がろうとして、融はぎょっとした。痛めた左の膝に異様な重さを感じたのだ。そうっと静かに膝を庇いながら立ち上がる。じわじわと不安がこみ上げてきた。自由歩行、これから20キロを歩き通せるだろうか。忍がくれた湿布を半分に切り、膝の前後に貼ると、ひやっとして気持ちいい。サポーターで固定すると、精神的にも楽になった。まだ脳みそも身体も半分眠っているような状態なのに、それでも身体は緊張と興奮で震えていた。貴子の緊張は、混乱でもあった。「西脇君は貴子の異母きょうだいだもの」昨夜、朦朧とした中で聞いた美和子の表情と声が、頭の中に焼き付いて離れない。美和子はいつから知っていたのだろう。静かだった校舎が、再び殺気立った喧騒に包まれていた。校門のあたりを埋め尽くす、人、人、人の黒い頭。もはや、北高の生徒という括りしかない、全校生徒がここをスタートして、ひたすら母校への道のりを目指すのである。時間内に途中のポイントを通過すること、出発後5時間で、校門のゴールを閉じること、それ以降はバスで回収されること。ゴールまでの注意事項が繰り返されていた。ガラガラ声でやけっぱちの校歌が響き、応援団員がドンドンと太鼓を叩く。実行委員の声を合図に、集団は動き出した。忍と一緒にゴールできるだろうか。融の頭の中も不安でいっぱいだ。だが、今は全力でこいつと並んで、行けるところまで頑張ろう。それから先のことは、その時考えよう。忍と一緒なら俺は後悔しない。融は膝のことも忘れて走り続けていた。これから20キロ、歩けるのだろうかという思いを胸に、貴子と美和子も歩き出した。ゴール地点に向かって。貴子は、果たして掛けの結果がどうなるだろうかと思いつつ・・・。☆☆☆☆♧作者略歴1964年、宮城県生れ。早稲田大学卒。92年、日本ファンタジーノベル賞候補作となった『六番目の小夜子』でデビュー。活字でこんなことが出来るのか、という驚きと感動を提供して注目を浴びる。ホラー、SF、ミステリなど、既存の枠にとらわれない、独自の作品世界でたくさんのファンを持つ。♧受賞作品・夜のピクニック 2004年-2005年、第26回吉川栄治文学新人賞、第2回本屋大賞・ユージニア 2006年、第59回日本推理作家協会賞(長編及び短編集部門)・中庭の出来事 2007年、第20回山本周五郎賞・蜜蜂と遠雷 2017年、第156回直木三十五賞、第14回本屋大賞