スペイン風邪に学ぶ
新型コロナウィルスが全世界を震撼させています。一体いつ、どのように収束するのか誰も教えてくれません。100年前に大流行したスペイン風邪は、一体、いつどんな形で収束したのでしょう?「スペイン風邪、収束」のキーワードで検索、ヒットした記事を色々調べてみました。下記の2つの記事を参考に、自分で調べた数値も加えて短くまとめてみました。♣︎参考にさせて頂いた記事1.古谷経衡(作家、文筆家、評論家)yahoo!ニュース ↓日本はパンデミックをいかに乗り越えたか〜100年前のパンデミック・スペイン風邪の教訓リンクを貼らせていただきましたので、是非原文をお読み下さい。2.wikipedia スペインかぜ スペイン風邪ウィルス(H1N1亜型)★スペイン風邪(H1N1型)1918年〜1920年(但し、日本は1921年夏頃まで)当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染。その内2,000万人〜4,500万人が死亡☆名称の由来第1次世界大戦当時、欧州で数少ない中立国だったスペインは、戦時報道管制の外にあったため、この新型ウイルスの感染と惨状がスペイン伝として世界に発信されたため、この名が付いた。日本の報道ではスペイン風邪の俗称は「流行生感冒」だった。 ☆日本での感染者、死者数内務省衛生局編『流行性感冒』による統計数値1918年8月〜1921年7月患者数=2380万人死者=39万人(肺結核、気管支炎等が死因とされていた者を含むと45万人とも言われている)1920年現在、日本の総人口=5600万人(国勢調査)2020年1月1日現在=12400万人(住民基本台帳)1920年現在の死者を45万人として、現在の人口で換算すると、死者数は約100万人になります。古谷経衡さんの記事によりますと、日本でスペイン風邪が確認されたのは、1918年、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡したことが契機である。そののち、同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がった。また、1919年2月3日朝日新聞によると、最近2週間に東京府下で1300人死亡。各病院は満杯となり「新たな入院はお断り」の始末であった。また、福井県では一村がほぼ全滅状態になった村がある。盛岡市では市内の各商店、工業は休業。学校は休校。神戸では二ヶ所ある火葬場が満杯になり棺桶が放置される有様だった・・・等々。スペイン風邪の猛威は、列島を均等に席巻し、むごたらしい被害をもたらしたようです。では、当時の政府や自治体の対応ばどうだったか。1919年(大正8年)1月、一般民衆への大々的な呼びかけをしている。知識がないにも関わらず、現在のコロナ対策と酷似していた。 部分的に認識違いはあるものの、基本的には「マスク着用」「患者の隔離」など現在の新型コロナ禍に対する対処法と同様の認識を当時の政府が持っていたことがわかる。けれど、様々な対処を行なったが、根本的には無策でした。著者の古谷経衡さんは、以下のように書いておられます。日本各地で猛威を奮ったスペイン風邪は、1920年が過ぎると自然に沈静化した。何故か。それは内務省や自治体の方針が有効だったから、というよりも、スペイン風邪を引き起こしたウイルスが、日本の隅々にまで拡大し、もはやそれ以上感染が拡大する限界を迎えたからだ。そしてスペイン風邪にかかり、生き残った人々が免疫抗体を獲得したからである。つまり「スペイン風邪は突然嵐のように世界と日本を襲い、そして自然に去っていった」というのが実際のところなのである。現在は、新型ウイルスの伝播は比較にならないほど早い。だが。100年前のパンデミックと違うところは、医学の進歩である。ならばどうするか。私たちの採るべき方針は100年前と変わらないように思える。ウイルスの猛威に対しては防衛的な姿勢を貫き、じっと私たちの免疫がウィルスに打ち勝つのを待つ。実際にスペイン風邪はそのようにして終息し、日本は内地45万人の死者を出しながらパンデミックを乗り越えている。未だ続きますが、この辺で・・・。つまり、スペイン風邪のウィルスは、多くの犠牲者を出しながらも抗体を身につけた人類に、これ以上取り付けなくなり去って行った。……ということだった様です。