火定・澤田瞳子
☆火定(かじょう)・澤田瞳子・PHP文芸文庫・発行所:(株)PHP研究所・2020年11月19日 第1版第1刷発行・2015年発行の『文蔵』10月号(PHP研究所)で連載が始まる。・2017年11月にPHP研究所より単行本!刊行時代は天平9年(西暦737年)。舞台は寧楽(奈良)。飛鳥から寧楽に京が移されて27年。明るい陽射しの中で眺めれば、壮大な柱の丹の色や釉瓦の輝きは些かくすんで映る。施薬院の高志史広道(こしのふひとひろみち)と、蜂田名代(はちだのなしろ)は、宮城(きゅうじょう)にむかって急いでいた。この日は、宮城の内部で遣新羅使が買い求めてきた、珍品、貴品を、購入希望者に払い下げられるのである。その会場で、顔を真っ赤にした30前後の官人が、広縁の端に仰向けに倒れていた。遣新羅使の1人である。駆け寄ろうとした同じ船で新羅に渡った同輩は、何故か急に足を止め、怯えたように立ちすくんだ。この年、100人ほどが遣わされた遣新羅使一行のうち、1ヶ月前に京に戻ってきたのは、ほんの20人程度と噂されていた。それは、ひどい疫病に罹患したからで、大使はかの地で亡くなり、副使も帰国してしばらく病が癒えず、療養していたという。頭痛と高熱を訴えた患者の熱が下がり、ほっとしたのも束の間、全身に膿疱が出来る。それは、30年ほど前にも、この国を襲った痘瘡(天然痘)だった。有効な治療法が見つからなかった当時は、患者に出来ることは対症療法しかなく、瘡には猪膏で拵えた塗り薬を用い、高熱に喘ぐ患者には熱冷ましを飲ませる。そして、もはや命が助からないとなると、少しでも安らかな時を与えてやることが、精一杯の手当てだった。ばたばた人が亡くなり、施薬院でも病を直す手立てがないと分かると、人々は拝み屋や、得体の知れない高額の神のお札に群がるのだった。他人を押し退けて禁厭札を買おうとする人々あり、前代未聞の混迷を千載一遇の金儲けの機会としか考えぬ者あり、みなこの灼熱の陽射しに思慮を焼き尽くされ、生きることのみに執着する狂人(たぶれびと)と成り果てた。♣︎蜂田名代(はちだのなしろ)施薬院に勤める21歳の下級役人。半年前に配属されたが、なんとか施薬院から逃げ出したいと思っていた。♣︎高志史広道(こしのふひとひろみち)施薬院の事務を一手に担う有能な、名代の同僚。♣︎綱手(つなで)施薬院の医師。若い頃に罹った大病の痕が全身に残っている。30年ほど前に流行った痘瘡の痕らしい。☆施薬院京(みやこ)の病人を収容し、治療を行う施設。天平2年(西暦730年)4月、孤児や飢人を救済する悲田院と共に、皇后・藤原光明子によって設立された。藤原氏への非難をかわそうと、藤原氏の積善を世に喧伝するためだけに作られた施設だとも言われている。☆パンデミック(pandemic)"感染爆発"などと訳され、感染症や伝染病が全国的・世界的に大流行し、非常に多くの感染者や患者を発生すること。☆タイトルの「火定」とは?作者の澤田瞳子さんによりますと、「修行者が自ら火中に身を投じて、無我の境地に入ると言う意味」だそうです。・・・・・・・・・・当時の奈良の人口8万のうち3割近くが犠牲になったと言う、未曾有の災難の中で、人々はどう生き、どう死んだのか・・・。天然痘の流行を食い止めようと必死で働く、施薬院の若き医師や役人たち。彼らの目を通して作者は、医学とは何か、人が生きることの意味を問いかけています。表紙カバー裏面の最後には『天平のパンデミック」を舞台に人間の業を描き切った傑作長編』と、ありました。この小説の連載が始まったのは、2015年10月。単行本が出版されたのは2017年11月。コロナウイルスによる、平成のパンデミックを予測したようなタイミングでした。解説文の中で、阿部龍太郎さん(小説家)は、この2つのパンデミックの共通点を挙げています。流行の発生源は外国だったことです。『朝廷は阿部継麻呂を大使とする遣新羅使を送ったが、継麻呂は帰国途中に疱瘡で死亡。知識を持つ医師もおらず、本来ならこの時点で一行を隔離して感染を封じ込めるべきだったが、なんの対策も取らないまま寧楽(奈良)に戻った。そのため寧楽でパンデミックが起き、人口の3割近くが死んだと言われている。当時朝廷を牛耳っていた藤原不比等の4人の息子達も感染して相次いで他界し、藤原政権は崩壊した』とも書かれていました。♣︎著者:澤田瞳子(さわだとうこ)1977年、京都府生まれ。同志社大学文学部文化史学専攻卒業、同大学院前期博士課程終了。2010年、「孤高の天」で小説家デビュー。11年、同作で第17回中山義秀文学賞を最年少受賞。12年、「満つる月の如し仏師・定朝」で第2回本屋が選ぶ時代小説大賞受賞、13年、第2回新田次郎文学賞を受賞。16年、「若冲」で第9回親鸞賞受賞など。本作「火定」は第158回直木賞及び第39回吉川英治文学新人賞の候補となった。