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☆室の梅(おろく医者覚え帖)・宇江佐真理 ・1998年8月20日 第1刷発行 ・発行所:講談社 ♣︎主な登場人物 ・美馬正哲=検屍役(人は「おろく医者」と呼ぶ) 1774年4月、江戸八丁堀の町医者、 美馬洞哲の三男として生まれる。36才。 ・お杏=産婆、正哲の女房 ・美馬玄哲=正哲の父、町医者。 ♧目次 1.おろく医者 2.おろく早見帖 3.山くじら 4.室の梅 *注.おろくとは? 「南無阿弥陀仏」の6文字から来ているが、市井の人は「死人」の意味に使っていた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本で最初に腑分けが行われたのは宝暦4年(1754)閏2月4日のことである。 若狭小浜藩の藩医小杉玄適は、藩主の許しを得て初の腑分けを見学した。玄適の師、山脇東洋は、この時の玄適の話を元に『蔵志(ぞうし)』という観察記録を出版した。玄適の同僚、杉田玄白は機会があれば腑分けを観臓(見学)したいと望んでいた。だが、江戸にいた玄白にようやく機会が巡ってきたのは17年後(1771年)であった。小塚っ原で仕置された刑死体を使っての腑分けだった。見学する玄白の懐にあったのは蘭書『ターヘル・アナトミア』であったが、この時の玄白はオランダ語を一語も理解できず、掲載されている内臓の図だけが彼の手引きだった。それは一つの間違いもなく死人の内臓と一致した。これ以後、玄白は4人の仲間と共に「ターヘル・アナトミア」の翻訳に着手、刊行されたのは3年後だった。 この年、江戸八丁堀の町医者、美馬家の三男として正哲は生まれた。長男、玄哲は姫路藩酒井家の藩医、次男、良哲は松前藩松前家お出入りの医者として勤めに従事していた。だが正哲だけは違い、若い頃医者の修行のために長崎に遊学したにもかかわらず、江戸に戻ってからは八丁堀の役人と組んで死人の検屍ばかりしていた。医者には違いないのだが、彼は一度も人の脈を取ったり、投薬をしたことがなかった。人は、彼をいつの頃からか「おろく医者(注*)」と呼んだ。 お杏は、父親は行方知れずとなり母親がお杏を置いて再婚したあと、産婆をしていた祖母に育てられた。だが、その祖母はお杏が16才の時に急死。祖母の最後を世話した洞哲はお杏の身を案じ、正哲と一緒にならないかと勧め二人は結婚した。正哲のお役目は検屍役とはいえ、決して実入りの良い商売とはいえず、所帯を持ってからは産婆をしている妻のお杏の稼ぎを当てにしているところがあった。 (町奉行所に「おろく医者」と称する検屍役の記述はなく、美馬正哲の存在は同心が抱える小者の扱いと同等のものになる) 遡ること5年、紀伊の国の医者、華岡青洲は世界最初とも言うべき、麻酔剤による乳癌摘出手術をおえていた。その詳しい記述書を目にしていた正哲は、お杏の元に「おろく早見帖」を残し、遅くとも一月で帰ると言い置いて紀伊の国の華岡青洲の元へ旅立って行った。 三月後、ようやく帰って来た正哲は「花岡先生がなかなか放してくれなくてな、美馬先生、美馬先生とうるせぇくらいだったのよ。おれな、麻沸散(麻酔剤)を使って実際に手術もしてきたぜ・・・」と得意そうに言った。 さりとて、その後も正哲は出世を望む訳でもなく、正哲とお杏の暮らしは三月前と何も変わらない日々が続く・・・。 おろく医者・美馬正哲と産婆・お杏。人の生と死に立ち会う夫婦の目を通して描かれた捕物帖。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.07.30 14:17:03
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