カテゴリ:本
☆ふたつのしるし・宮下奈都 ・幻冬社 ・2014年9月20日 第一刷発行 ・「GINGER L.」09号(2012 WINTER)~15号(2014年SUMMER)に連載された作品を加筆、修正したもの ♣︎ハル =柏木温之(かしわぎはるゆき)、小学校1年(1991年5月) ハルは何もしなかった。できなかった。やろうとしなかった。どのように思われても本人はかまわなかった。なにしろ彼の心はそこになかった。そこにも、ここにも、どこにもなかった。ハルの心は常にそのへんを漂っていて、たまにカチッとピントが合ったときにだけ身体に返ってくる。ハルが好きなのは地図だ。何時間でも読んでいられる。教室でいつも1人だったせいもあり、ますます地図に没頭した。隅から隅まで眺め、山の頂に立ち、やがて下り、道をたどり、川を追う。通り過ぎる町の名前、注ぐ湾のかたち、海の深さ・・・、ひとつひとつ確認しては飲み込んでいった。 同じクラスの浅野健太は、ハルのことを、何だかわからないけどあいつはスゴイと思っていた。 人に迷惑をかけるな、というようなことを、母の容子は息子に一度もいったことがない。迷惑をかけたくてかける人はいないのだから、そういう不本意な状態にある人のことは大目に見てもよいのではないか、というのが大まかな容子の考えであった。温之は手のかからない子だ。幼い頃からひとり遊びが好きだった。自分の好きなように時間を過ごす術に長けているように思われた。ただ、ごくたまに、石でできたお地蔵さんのように頑固になることがあった。外を歩いていても、何かに熱中するといくら呼んでも聞こえなくなってしまう。関心を持った対象との間の回線だけをつなぐために、他の一切のシャッターを閉じてしまうのだ。放っておけば、いつかは戻ってくることを、容子は理解していた。 ハルが高校生のとき、母の容子が車に撥ねられて死んだ。ハルは家にこもった。高校にも行かなくなった。自分が高校生だったという事実を忘れてしまっていた。自分が容子の息子であったことの方が大事だったのに、それさえも忘れていたのだ。父の息子である事実も忘れていた。 身の回りのものと、大事な地図を押し込んだバックパックを肩にかけ、父の慎一に、行って来ると告げた。雨が降っていた。行くあてはなかった。とりあえずハルは母が最後に歩いていた町のほうへ向かった。事故の現場はもうすぐそこだった。突然、何も考えられなくなり、一刻も早くその場を離れたくなった。電車を乗り継ぎ、どこにも辿り着けずに電車を降りた。海辺の町だった。あてもなく砂浜を歩いた。人の足音が近づいてきた。ハルが死のうとしていると勘違いした女が体当たりしてきた。連れていかれたのは古いアパートだった。ミナという名の女は若く、未だ少女だった。「泊まるとがこないなら、ここに泊まっていいから」といい、着替えて化粧をして出かけていった。濡れずに眠れるのがこんなにありがたいことだとは知らなかった。見ず知らずの女の部屋で、ハルはすぐに眠りにおちた。 女に「働いてよ」といわれて、初めて、あーそうかと思った。コンビニに置いてある無料冊子で見つけた仕事は、電気工事会社のアルバイトだ。温之は働いてよ、といわれて応えられる自分のことが、少し嬉しかった。1ヶ月半でそこの仕事は終わり、現場は解散になった。本来なら、アルバイトはそこまでのはずだった。しかし、電気工事会社の社長が「おまえ、キャベツみたいにもくもくと働くから。よかったら、うちに来ないか」と、声をかけてくれた。本社は東京にあり、社長が安い部屋を見つけてくれた。別れの日、ミナは低い声で「ばか、ハルのばか、ばか、ハルのばか」と罵った。「ありがとう。助けてくれて」というと、ミナの顔は真っ赤になった。 最初はいわれた通りに雑用をするだけだった。あるとき、コピーを頼まれて図面を預かった。きちんと順番通りに出ているか確認しているうちに、突然気がついた。よく見れば、描かれた線が続いて、つながって、一つの道を表している。目が吸い寄せられた。わかる、と思ったのだった。その図面は、温之にとっては読み慣れた地図のようなものだった。いくつかの不明の記号の意味さえ調べれば、この配電図が何をしようとしているのかわかる。言葉で説明しようとするととても面倒なことが、整然と表されている。仕事が俄然楽しくなった。温之は静かに興奮した。もっと図面について知りたい。勉強して、読めるだけでなく描けるようになりたい。生まれて初めて、自分で物事を調べよう、それを覚えよう、身につけようと思った。さいわい、職場に資料は山ほどあった。知識はするすると温之の身体に入っていった。驚いたのは、社員の人たちが普通に話しかけてくれることだ。「あっという間に仕事を覚えたな」そういわれると嬉しかった。 社長がいった。「おまえは謙遜しないからいい。絶対手を抜かない。それはある種の才能だな」何十枚もの図面と首っ引きで、配電図を描いていたときだ。夜も遅かった。社長は戸締りをして、「あんまり根を詰めるなよ」といい、「はい」とうなずく温之の顔をしげしげと見た。 住宅新築のための電気の配線をこなすようになると、より複雑な会社やビルの仕事に加えてもらえるようになった。温之の胸は踊った。大きな地図が描ける。長い配線、複雑な配線が好きだった。社長は温之を可愛がってくれ、仕事をたくさん与えてくれた。三年を過ぎるあたりから、社長の仕事には必ず温之が助手につくようになった。 フロアを拡張して以来、電圧が不安定になっているという現場に行ったのは土曜だった。社長と2人で確認したが、それでも、翌週、また苦情が出た。やむなく社長と温之は平日の昼間に現場に出向いた。そのとき、向こうから来る女性が目に入った。温之より少し年上に見える、とても綺麗な人だった。温之たちが運んでいる脚立と工具を見て、お疲れさまです、と会釈をした。綺麗な声だった。「遥名さん」入り口のほうから若い女が呼びかけて、彼女がそちらを振り向いた。そのとき、はっとした。この人を知っている、という思いが不意に横切った。「おい、どうした、ハル」社長の声に、彼女が一瞬社長を見て、それからこちらをみた。目が合った、と思う。綺麗な目だった。 ♣︎はる=大野遥名(おおのはるな)、中学校1年 (1991年5月) 父親は遥名に何も望んでいなかった。母親も遥名が幸せになってくれればそれでよかった 中学校に入ったら、ぎゅうっと窮屈になった。近年荒れていると評判の公立中学校だ。教師たちは生徒を締め付け、生徒たちは更に反発する。遥名は勉強して、賢い学校へ行くしかないと思っていた。勉強ができても目立たなくて済む、のびのびと勉強していられる学校へ。大丈夫だ。きちんと戦略を守っていれば、大丈夫だ。遥名は考えた。どこで足をすくわれるかわからない以上、できるだけ引っかかりを出さないこと。目立たないこと。小さい頃からずっと、頭がいいと言われてきたのも、綺麗だと言われてきたのも、不幸になるためじゃない。 兄と同じ東京の大学に合格し、女子寮に入った。結構な偏差値の、そう簡単に入れない難関大学だ。「あたしはとにかく地元を出たかっただけだから」と言い切る友達ほど、遥名は自由になれない。いつも、ただ地道に歩いてきた。何かを上手に避けたり、ぽんと跳び越したりする人が素直に羨ましかった。ひたすら身を潜めていた情けない思春期は、使い道がないわけじゃない。きっとその後のいざというときのためにある。これからなんだ。遥名は自分にいい聞かせる。いざというときはこれから来る。そのときに全力で迎え撃てるような準備をしていこう。 大学を出て、そのまま東京で就職した。地元へ帰って来ると期待していた両親も、超氷河期といわれるこの時期に東京で大手企業から内定をもらったあたりから、何もいわなくなった。入社3年目。仕事で評価されることが増え、無理に周囲に合わせなくていいと思えるようになった。付き合いに時間を割かれるより、仕事を優先したい。ばかのふりをしなくてもいいのだ。今の遥名の人生には仕事の比重が大きい。目立ちたくなかった。まだ、まだだ。遥名は自分はまだだと思う。ふさわしいときのための準備ができていない。かわせ。どんな攻撃も「にっこり」と、よけるが勝ちだ。遥名は、医療用機械を販売する今の仕事が好きだ。営業成績も上々だった。目立つなら、優秀な営業として目立ちたい。そんな遥名が、妻子ある上司に恋をしてしまった。その恋は、海外転勤をしおに、相手が「別れたい」といい、終わった。 ♣︎ハル と はる・2011年3月 遥名、32才。ハル=26才。 揺れた。どんっと突き上げるような揺れの後、激しい横揺れが来て、立っていられない。父母に連絡を入れたかったが電話が繋がらない。とにかく無事だとメールをいれた。同僚と、クッキーと使い捨てカイロを分けあい、会社の前で別れた。会社の前の道は、歩く人でいっぱいだ。さて、と思う。歩くって本気?それもパンプスで。どれくらいの距離がある?どうやら東北が大変なことになっているらしい。遥名は自分がよほどショックを受けているらしいと気づく。この人達に混じって歩き通せる気がしない。無理だと思った。 後ろから肩を押され、振り返ると、若い男の人が立っていた。「遥名さん」と呼びかけたその人の顔に見覚えはない。背が高くて細身の、やさしげな顔つきの人だった。黄緑色の作業着を着て、リュックを背負い、自転車を押している。20代の後半、自分より5歳くらい年下だろうと読んだ。その人は、とても真面目な顔で「よかったら、送ります。後ろに乗ってください」といった。遥名の問いに、電気工事を請け負った会社の技師だと名乗り、遥名のことは顔と名前しかしらないと応えた。「遥名さんが心配だったのです。無事でよかったです。近くまでお送りします。乗って下さい」青年は耳まで赤くして、遥名にいった。途中、坂道で自転車を降り、横に並んで歩いた。青年は「職場でひどく揺れて、気がついたら後先考えずに遥名さんのところへ走ってました」という。それは、取りようによっては情熱的な告白だった。でも、現実的に起こったことが大き過ぎて、とても自分にかかわる話だという気がしない。青年の行動は、自然で素直な人間らしい行為のようで羨ましかった。青年の年令は26才。柏木温之です、と名乗った。 遥名のことは、2年くらい前に、電気の配線の点検に来たときに見かけた。この人だという「しるし」がついていたので、すぐにわかりました、という。 ♣︎柏木しるし=ハルと遥名の娘、10才 今日は、お父さんの幼なじみの健太くんが、家に来る。急いで帰ったら、もう来ていて「おかえり」といい、「あれっ、しーちゃん、ちょっと見ないうちに大きくなったなあ」と、カットしたばかりのあたしの頭をぽんぽん叩く。健太くんは1人じゃなかった。お父さんが「今度、健太と結婚する人だよ」と、教えてくれた。キッチンからお母さんがお盆にお茶とお菓子を載せて運んできた。何だか嬉しそうだ。みんなニコニコ笑っているけど、私だけ笑えなかった。健太くんは、「ハルが結婚したときはほんとに驚いたけど、あれから10年も経つんだな」と、前にも何度も聞いた話をした。 私は10才。学校でやる二分の一成人式のときのために、自分の生い立ちについていろんな人に話を聞いてまとめている。世田谷のおじいちゃんは、お父さんと一緒だと面白い話をしてくれない。だから1人で行った。金沢のおじいちゃんおばあちゃにも電話でいっぱい話を聞いた。夜に作文をまとめてみたけど、うまくいかない。お母さんに、「どうしてお父さんと結婚しようと思ったんですか」インタビューするみたいに聞くと、「勘ですね。人生には勘が必要です」といった。それで、どうしてお父さんだったのですかと聞くと「お母さん、お父さんを見つけたんだ」といった。あれ、たしか、お父さんがお母さんを先に好きになって、ずっとチャンスを待っていたみたいなことを聞いた。 おじいちゃんがね、「よくできた遥名さんみたいな人がどうして温之と結婚したのか謎だって」お母さんをほめたというより、卑下したという感じだった。 「大丈夫。おじいちゃんも、ほんとうはお父さんのいいところをわかっているんだと思うよ」そうかもしれないな、と思った。だから、私を可愛がってくれている。『生い立ちの記』を完成させたら、おじいちゃんにも読んでもらおう。もちろん、お母さん方のおじいちゃんおばあちゃんにもだ。それで、あたしは胸を張ろう。どうです、私がこのふたりのしるしです、って。 読み終わった本は、確かに読んだという記録と、脳みその老化防止のために、あらすじを書くことを、自分自身に課しています。 この「ふたつのしるし」は、あらすじを書き出す前に、どう纏めればよいのか途方に暮れました。タイトルと出版社などのデータだけで投げ出そうかと思ったほどでした。 けれど、作者がこの小説を通して、読者に伝えたいメッセージを何とか書き留めたかったのです。仕方がないので、筋書きを一度バラして組み直しました。おかげで、良い脳みそのトレーニングにはなったとは思いますが、くたびれました。 果たしてこんなまとめ方で良かったのか自信がありません。興味を持たれた方は、ぜひ原作をお読みください。 もし、ここまで読んで下さった方がいらしたら、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[本] カテゴリの最新記事
|
|