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☆極北クレイマー・海堂尊 ・朝日新聞出版 ・2009年4月30日・初版発行 ♣︎今中良夫 極北大医学部第1外科から極北市民病院に派遣された。外科医8年目だが博士号も取らず、医局の本流にはいない。極北市民病院での肩書は、外科部長。身分は非常勤。ボーナスも無い。 ♣︎三枝久広 産婦人科部長。彼は一人で黙々と病院を支えてきた。 【あらすじ】 財政破綻に喘ぐ極北市。今中が着任した極北市民病院は、赤字が山積し院内は規律が乱れ、ひどい状態だった。そんななか、産婦人科部長の三枝医師は病院内の誰からも一目置かれ、市民からの信頼も厚い。だが以前、手術中に母子が死亡する不幸なケースに見舞われたことがあった。 亡くなった妊婦の夫をそそのかし、裁判に持ち込もうと暗躍する医療ジャーナリスト、警察庁、日本医療業務機能評価機構の思惑が絡み、三枝医師は逮捕された。 病院経営が破綻状態になったあと、院長は今中に、リスクマネジメント委員会委員長、病院環境改善検討委員会委員長、病院長代行という肩書きを押し付け、病院を去った。 上を下への大騒ぎの市役所はあてにならない。 病院を支えてきたのは、実質的に今中と三枝産婦人科部長の二人だった。だから、いまは例え片翼をもがれても、なんとか飛行が可能だった。 今中良夫非常勤外科部長兼院長代行の判断は素早くかつ適切だった。難しく考えることはない。自分にできることに集中し、できないことは外部に委託する。今中は診療を慢性通院患者のみに限定した。その上で救急患者の診察は行うが、治療できない場合、直ちに「極北救急救命センター(*1)に、全面支援要請を行った。電話の男性はセンター長代行の速水(*2)と名乗った。事情は了解してます。事前連絡なしでなんでも受けます。と答えた。 翌朝出勤した今中に、手渡されたのは数通の辞表のほかに、母校、極北大の医局からの帰還命令だった。ずっとその便りを心待ちにしていたはずだったが、嬉しいはずの文言が白々しく見える。 その時、今中はひらりと決断した。逃げ出さずに、戦場の最前線で戦闘の行く末を見届けてやろう。ボロボロになるまでここにしがみついてやるという今中の手を平松事務局長が握りしめた。 新病院長が任命され、こちらに向かっているとのニュースがテレビから流れていた。テロップには「極北市民病院立て直しに病院再建の専門家招聘」と流れる。丸眼鏡、細身の身体。年齢は40代か。哲学者然とした風貌、時折浮かべる笑顔に濁りはない。ラフなジャケットにジーンズ。細いタイをざっくり締めている。 やってきた男性は、世良雅志と名乗り、肩書きは、「不良債権病院立て直し請負人」かな。これまで7つの病院の再建を手がけてきた。今回は、総務省から要請され、院長として赴任した、という。 記者会見での記者に対応する世良の、歯切れの良い言葉に、今中の胸が熱くなった。 (*1 ) 極北救急救命センター ヘリで運ばれてきた患者の治療のバックアップは、民間の個人病院が引き受けるシステムになっている。雪見市長は極北救急救命センターを雪見市に移転する際、移転費用を負担し受け入れた。 (*2)速水晃一 救急救命センター副センター長。将軍と呼ばれている。東城大出身、世良の後輩。 桜宮市のコンビナート火災の際、活躍した速水はジェネラル(将軍)と呼ばれた。 ・・・・・・・・・ ☆読後感 スリジエセンター1991のラストで、東城大医学部外科学教室に辞表を残し、恋人も捨てて姿を消した世良雅志が、「病院再建の専門家」として姿を表しました。 病院を去った当時の彼は外科医3年目の研修医だったはず。世良を見た今中は、彼を40代かなと見ています。ということは、少なくとも20年近い年月が流れていることになります。 (次作品、「極北ラプソディ」で18年後と判明) 極北大といえば、「ブラックペアン1988」に登場する「渡海征司郎」の出身大学です。また今中良夫からの電話で「極北救急救命センター代行・速水」と名乗ったのは、世良雅志の後輩だった優秀な外科医の名前です。 なんだかワクワクしてきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024.08.17 08:01:23
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